毛織物(ウール)は、17世紀後半に、綿織物(コットン)が普及するまで、ヨーロッパの基本となる衣類であった。中世においては、イギリス、スペイン産の羊毛を原料にして、北イタリアとフランドル地方が、毛織物の二大産地であった。
この原料生産地と毛織物産地との間で、活発な羊毛貿易が行われ、その利益を巡って、中世のイギリスとフランスの百年戦争、さらに、中世末期のイギリス・オランダとスペインの対立などが展開された。
イギリスは、14世紀中頃に、羊毛生産から毛織物製造業へと転換し、工業化への道を歩み始め、マニュファクチュアと問屋制によって、毛織物産業を発展させ、他国を圧倒した。しかし、18世紀の産業革命期に、インドから安価な綿織物が入ってくると、急速に綿工業の機械化へと経済の主力が移り、毛織物業は急速に衰えた。
繊維産業には、毛織物・絹織物・麻織物・綿織物がある。そのうち、綿花を原料とする綿織物は、古代インドに始まり、十字軍時代に、ヨーロッパにも伝えられたが、その頃は、麻や羊毛との混紡がほとんどで、質は良くなく、18世紀まで、イギリスで最も盛んだったのは、毛織物工業であった。
17世紀以降、高品質のインド綿布が、東インド会社によって、ヨーロッパ市場に輸入されるようになると、ギルド制度によって、職人たちが保護され、機械化が遅れていた毛織物に代わって、綿織物の需要が急増した。こうして、18世紀後半に、新興産業で、機械化がしやすかった綿工業から、イギリスの産業革命が始まった。
綿織物(コットン)の利点は、毛織物(ウール)に比べて、安く、鮮やかな色の模様や文字をプリントすることができ、さらに、決定的なことは、洗濯が容易であったことである。実際に、綿織物が普及して、イギリス人の生活は、急速に清潔になり、それが平均寿命の延長につながったと見られている。
産業革命期のイギリスで、大量に生産されるようになった、工場制の綿織物、いわゆるランカシャー綿布は、国内市場で飽和状態となり、イギリス殖民地に向けて出荷されるようになった。
安価なイギリス製綿織物が大量に流入するようになったインドでは、農村の家内工業が破壊され、さらに、ダッカ(現在のバングラデシュ)などの綿織物産地が、急速に衰えた。代わりに、イギリス東インド会社は、インドの綿花を、原料として輸入した。インドは、モノカルチャー経済で、イギリスへの隷従を余儀なくされた。
イギリス製綿織物は、インド市場を征服し、次に、中国市場の征服を狙った。
しかし、中国では、長江下流の南京を中心として、高品質な「南京木綿」の生産地があり、遠い距離を運ぶ必要があるイギリス製綿織物は、価格の面でも割高になったために、正攻法では、太刀打ちできなかった。そこで、悪辣なるイギリス商人たちは、ご禁制の品であるインド産アヘンを、秘密裏に、中国へと販売したのである。
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