フランス海軍は17世紀後半・ブルボン王朝の絶頂期ルイ14世の時代に頂点を迎え、大同盟戦争以降、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争、アメリカ独立戦争、フランス革命戦争、ナポレオン戦争といわゆる「新・百年戦争」と呼ばれる一連の戦争でイギリス海軍と戦い続け、ライバルの死闘は19世紀も続く。
しかし、ジョン・ブル魂の権化のようなイギリス海軍に煮え湯を飲まされ、海戦においてはイギリスに大敗することも多かった。これはフランスがイギリスより人材が劣っていた結果を示すのかも知れませんが、「チェサピーク湾の戦い」のようにイギリスに敗戦を与えることもあって、宿敵と言う関係のまま18世紀末を迎える。
ところがフランス革命は貴族がほとんどだった海軍士官を逮捕・追放、処刑・亡命と、指揮系統を壊滅状態に追い込んでしまい、残ることが出来た革命を支持する若い貴族の士官を中核に、平民出身の下士官や革命派の水兵、海を知らない陸軍の士官や民間の海運関係者から漁民までかき集めて再建されます。
しかし士官の養成は一朝一夕に出来上がるものではなく、フランス海軍はいよいよ連戦連敗のありさまとなってしまいます。この大陸軍(ナポレオン指揮下の帝国陸軍)の活躍と反比例するような海軍の敗戦に次ぐ敗戦はイギリスによる大陸封鎖へと進み、フランス第一帝政の力は次第に陰って行きました。
1805年、ネルソン提督がフランス=スペイン連合艦隊を打ち破った「トラファルガーの海戦」は正にフランス海軍の分水嶺で、以降、フランスは海軍力でイギリスを上回ることがありませんでした。
とはいえ、フランスはナポレオン戦争以降もイギリスに次ぐ海軍力であることは変わらず、それは普仏戦争当時も変わりはしませんでした。
また、フランスは実際の戦歴ではイギリスに劣っていたものの、技術力、特に艦船デザインと船舶建造、武器の発明においては世界の先端を行くものを持っており、この点ではイギリスはフランスの後背を追うものでした。
フランス革命後の戦争においてイギリス海軍の艦長の中には、自国が製造した新造74門戦列艦よりもフランスから拿捕した80門戦列艦を乗艦として希望した者も多かった、といいます。
ナポレオン退場後の1818年、フランス王国海軍大臣となったポルタル大将は戦争でズタズタになった海軍再建に尽力、1827年にギリシャ独立戦争中に発生したイギリス、ロシアと共にオスマン帝国海軍を破った「帆走主力艦同士最後の海戦」ナヴァリノ海戦に勝利しました。
1930年からは北アフリカ沿岸に進出してアルジェリアを植民地化する際に活躍、これは後にフランスが広大なアフリカ植民地を支配する端緒となります。
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