共産主義国の崩壊とヨハネパウロ2世

社会

1989年夏にまずポーランド、続いてハンガリーに共産色のない政権が樹立された。その年のうちにあのベルリンの壁が取り壊された。2年後の1991年には、共産主義の本丸だったソビエト連邦が解体に追い込まれた。

 

一連の東欧革命をリードしたのは、ポーランドだった。民主的色彩の濃い労働組織「連帯」の存在もあったが、1978年に同国のカロル・ヴォイティワ枢機卿がローマ教皇ヨハネ・パウロ2世となった影響もある。ポーランドは国民の98%がカトリック教徒である。同国から教皇を輩出した喜びが、西側への傾斜を加速した。

 

ソ連が崩壊した時、ヨハネ・パウロ2世は言った。「東欧の共産主義は消滅した。しかしこれは、資本主義が共産主義に勝ったわけではない。そのことをよく認識すべきだ」と。

 

1978年、新教皇の名が発表された。『ボイティワ』という名を聞いた時、彼らは新教皇がどこの国の人なのか理解できなかった。実に460年ぶりにイタリア人でない教皇の誕生である。ポーランド人のヨハネ・パウロ2世その人だった。

 

ポーランドの国防相だったヤルゼルスキにとって大司教ボイティワは既に厄介な人物として知られていた。公の説教でマルクス主義の正当性を何度も否定していたからだ。彼はそのころ既に精神的レジスタンスの中心人物になっていた。

 

西側世界のローマ教皇という首長を戴いてネットワーク化しているカトリック教徒はソ連圏では最も不穏な存在である。カトリックは自由世界と同義であり資本主義とも同義だった。ポーランドの共産政権は、新教皇の誕生がはらむただならぬリスクを予感した。

 

クラクフではかつてない100万人もの大群衆を前にして教皇は『冷戦は永遠に続く訳ではない。やがて聖霊がやってきて事態を解放するだろう』と述べた。群衆はこの勇気ある発言に勢いづいた。

 

1979年、ソ連のグロムイコ外相がバチカンに教皇を訪ねて協力関係を申し出ていた。教皇は人間に信教の自由は保証されなければならないと力説し、グロムイコはソ連では宗教で何の問題も起きていないと言い放った。しかし教皇は、ソ連のキリスト教徒が公職に就けないことをよく知っていた。

 

1981年7月、経済的困窮にあえぐポーランドで鉄道ストが起こり、瞬く間に全国の工場に広まった。東ドイツに常駐する50万人のソ連軍にとってポーランドの鉄道は冠動脈である。国内の緊張は高まった。

 

ワレサが率いる労働組合『連帯』が海軍造船所を占拠した。それまでのストでは労働者は大きな組織力を持っていなかったが、今回は違った。知識人と労働者と教会の三者がしっかりと手を組んでいた。政府は昇給を約束したが、ワレサは乗らなかった。自由化と政治犯の釈放などを条件に挙げ、『連帯』の抵抗は長期化した。

 

国境では戦車隊を先陣とするソ連陸軍の大部隊が侵攻の命令を待って布陣していた。ブレジネフはポーランドが反乱の状態にあると見なした。ソ連の代表がバチカンの代表に会見を求めてきた。もし『 連帯』の動きがソ連の統治に重大なリスクを与えるなら軍事介入すると申し渡された。

 

1981年1月、ワレサはバチカンにやってきた。ソ連KGBはイタリア共産党に連絡をとって彼と教皇の会談を中止させようとした。しかし時の勢いは止められなかった。ローマに着いた一行はイタリア共産党員にも熱狂的に迎えられた。教皇のミサにあずかり、会談を果たしたワレサは『息子が父に会いに来たのだ』と語った。

 

教皇は巧みな弁舌を使ってソ連を直接刺激することなく、しかしはっきりと労働者達の権利を擁護することを宣言した。

 

国境のソ連軍は遂に動かなかった。

 

1981年5月13日、レーガン大統領狙撃から1ヶ月半後、教皇は5時に始まる一般信徒の謁見のためにオープンカーで聖ペトロ広場をゆっくり移動していた。鋭い銃声がして広場の鳩が一斉に舞い上がった。6メートルの近距離から発射されたブローイング9ミリの拳銃の弾丸は2発とも教皇に命中した。

 

教皇は一命を取り留めた。体内から取り出された一つの弾丸はポルトガルに運ばれ教皇自らの手でファティマの聖母像の冠に差し込まれた。もう一つの弾丸で穴を穿たれた布バンドは後日故郷の黒い聖母に捧げられる。暗殺者の背後にはブルガリアの諜報局が係わっていたが、その向こうにはソ連の影が見え隠れしていた。

 

1981年12月、ポーランド政府は遂に戒厳令を発令した。折しも『連帯』が大々的なデモを予定していたところである。戒厳令を発表するヤルゼルスキ首相の声明は、ショパンの英雄ポロネーズの演奏と替わるがわるに何度も繰り返して放送された。

 

ワレサたちは次々に逮捕された。『連帯』のリーダーが表舞台から姿を消した。教皇は自らポーランド解放の旗印であることを宣言せねばならない。早速ヤルゼルスキに手紙を書いた。ヤルゼルスキも若い時にカトリックの教育を受けた人間だ。彼は信仰を失ってはいない、いつか必ず教会に戻ってくるはずだと教皇は信じていた。

 

戒厳令直後、西側諸国はソ連とポーランドに対して経済封鎖を断行した。民衆はインフレと食糧不足に苦しみ、生活条件は最悪となった。教皇は戒厳令を弾劾し、それをラジオ・バチカンでポーランドに流した。CIAが電波をバチカンに提供していた。

 

1982年6月、レーガンがバチカンにやってきた。通訳なしの50分の会談。アメリカはポーランドの地下運動を物質的に支え続け、教皇は精神的に支え続ける。共に狙撃され、共に神によって救われた二人は東欧の運命を変える使命感のもとに結束した。

 

1983年6月、教皇は再度故国ポーランドの土を踏むことになる。戒厳令下の軍事政権はカトリック教会がこの温情ある措置を理解して、反共を煽ることなく宗教活動だけに専念してくれれば良いという期待をこめた取引だった。

 

しかし、教皇は何も変わっていなかった。政府に向かって基本的人権の回復を強く迫った。公のスピーチの中で『連帯』については触れないようにと念を押されていたが、『普通名詞』として連帯という言葉が発せられる度に歓声が湧き起こった。

チェンストホバの修道院の前の草原で100万人の民衆を前にした教皇は、ポーランド国民に希望を与えて下さいと祈り、弾丸に貫かれた帯を黒い聖母に捧げた時100万人の眼は釘付けになった。垂れ幕を先頭に何万人もが『教皇が我等と共にいる、神が我等と共にいる』と連呼しながら行進した。教皇は将に主役だった。

1983年11月ブレジネフが死んだ。後を継いだアンドロポフはヤルゼルスキに対してポーランドがカトリック教会に譲歩し過ぎたこと、その所為で今やカトリックが社会主義体制に対する脅威になっていることを叱責した。だが1年半も経たない内にアンドロポフも死んだ。その後を継いだチェルネンコも1年で死んだ。

 

その次に書記長となったゴルバチョフは4月にポーランドに来てヤルゼルスキと5時間に亙って語り合った。ヤルゼルスキはこの国でカトリック教会がどんなに影響力を持っているかを力説した。また教会によってポーランドが西側世界と歴史的にいかに繋がっているかを説明した。

 

ゴルバチョフはその席上、東西共存のための改革の可能性と共産圏における信教の自由の可能性を示唆した。ソ連の風は確実に変わっていた。

 

1987年1月、ヤルゼルスキが初めてバチカンにやってきた。教皇との会談の中で彼はポーランド共産党が国民の支持を受けていないことを認め、経済回復のために教会の助けを求めた。ソ連によって任命されたヤルゼルスキ首相がソ連を見限ったのだ。ソ連は益々孤立した。

 

2月、教皇の要請を受けた西側諸国は経済封鎖を解除した。戒厳令も解かれ『連帯』は合法化されて再び歴史の表に出た。

 

1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。12月、ゴルバチョフがバチカンを訪れた。70年以上にわたって悪魔だともカトリックの天敵だとも見做されていたクレムリンのトップを一目見ようとバチカン中の枢機卿や司教たちは仕事の手を止めて窓から身を乗り出し、赤い旗をなびかせたゴルバチョフのリムジンを見つめた。

 

ローマ教皇とソ連共産党書記長は二人のスラブ人として向かい合った。東欧をめぐる戦いは既に勝負がついていた。二人は旧知の如く会談は打ち解けて進んだ。東欧諸国にもし民主主義と信教の自由が保証されるなら、教皇には放逸に流れる西欧やアメリカよりも、質実剛健な東欧諸国の方が彼の感性に適っていた。

 

教皇は過去8年、ポーランド解放のためにはアメリカの資金が必要だったし、外国訪問の際もアメリカからもらえる情報は有用だった。だからこそ軍備の拡張に熱心だったレーガンを今まで一度も批判しなかったが、ここにきてアメリカの物質主義やモラルの混乱はスラブ人である教皇にとってもともと気に入らないものだった。

 

ゴルバチョフはゴルバチョフで、国内の改革を成功させるために同じスラブ人であり、国際的に絶大な権威を持つ教皇の後ろ盾を必要としていた。今まで圧迫してきた国内の東方正教会の権威は全く頼りにならなかった。ゴルバチョフは教皇にぜひソ連に来て下さいと申し出た。

 

2年後の1991年、遂にソ連は崩壊した。腹心エリツィンらのクーデターで腐りきった共産政権はあえなく倒れた。その日、赤の広場のレーニン廟の前に誰かが聖母像を置いた。1917年にロシアの回心を予言したという聖母、教皇の命を暗殺から守ったという、あのファティマの聖母像だった。

 

かつて、ポーランドは、スターリンとヒトラーの密約により、国を滅ぼされ、共産主義者とファシストに支配された歴史がある。しかし、その後、ポーランドの人びとが共産主義体制から祖国を解放したのである。

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