イタリアでは、中部イタリアの教皇領を失ったことを恨む教皇からの執拗な反対にもかかわらず、立憲君主制が確立した。一方のドイツでもビスマルクは新しいドイツ帝国のための憲法を制定したが、これはいくつかの相容れない政治的思想を、巧妙ではあるがいかにも不安定な形で組み合わせたものだった。民主主義の原則は、成年男子普通選挙によって選ばれる帝国議会のかたちをとった。議会には予算に関する権威が認められていた。しかし一方で神権による統治という独裁制の原則は放棄されなかった。軍隊と外交に関しては、ドイツ国王=皇帝が完全な権力を握っており、宰相は帝国議会にではなく、皇帝ただひとりに対して責任を負うものだった。
対抗する隣国プロイセンとちがって、オーストリアのハプスブルク家の皇帝たちは、代議制議会政治を求める民族主義や自由主義的要求と折り合いをつけるのは不可能だと判断した。帝国内に住む多くの異民族がたがいに激しく争っており、国民による民主的総意など望むべくもなかったのである。それでも1914年には、ヨーロッパのすべての主要国で何らかの形の代議制議会ができていた。ロシアとても例外ではなかった。そして各国政府はいずれも、政府の政策と、新聞や政党によって作り出され、表明される「世論」とのあいだに、効果的な協力関係をうちたてようとしていた。
表面的に見ればこのことは、国民による政治の理想が華々しい勝利をおさめたものと言えよう。その理想こそ、1789年には大多数の実務家にとって無謀で非現実的な夢としか思われなかったのであった。ところが実際には、その理想がヨーロッパ中に広がっていくにつれて旧体制の諸要素が混入し、自由主義や民主主義の原則は徹底的に薄められていった。このことは特に中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパにおいて顕著だった。オーストリア、ロシア、ドイツでは、政府が作った飾りものの議会制度よりも、上からの官僚支配のほうがはるかに協力な現実だったのである。東ヨーロッパ諸国では、社会的変化は政府の行動の副産物としてもたらされるのがふつうだった。例えば奴隷制の廃止(オーストリア/1848年、ロシア/1861年)もそうだったし、ハンガリーにおける広範な自治権の確立(1867年)もそうである。ロシアでは1880年代から鉄道建設がすすめられ、主要鉱山や産業の開発がなされたが、それも政府がイニシアティブをとるか、政府の与える特別許可のもとで、行われていた。
ずっと自由な西ヨーロッパ諸国においても、多種多様な特殊利益団体、例えば法人、カルテル、労働組合、政党、教会、さらには軍人、官僚、法律家等々といった職業集団が、十九世紀中にぞくぞくと生まれ、理念の上での人民主権を大きく妨害した。それはちょうど革命前夜、理念の上でのフランス国王の絶対王権がさまざまな既得権益間のもつれによって大きく阻害されていたのと同じようであった。そうなればむろん、十九世紀初頭に人々をあれほど燃え立たせた自由で民主的な政治を求める革命への原動力は、次第に消えていった。民主主義の理想とそれを曇らせる力の現実とは、たがいに摩擦をくりかえすうち、次第に鋭さを失って相手に近づいていったのである。特権層は、革命によって民衆の擁護者たちから仮面をはがされる心配もなく、むしろビスマルクのように舞台裏から民主的政治のてこを操って、みずからの権力を拡大、強固にするやり方を学んだかのようであった。
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