アメリカ 20世紀始めの高層ビル

工学

1945年7月28日朝、アメリカ空軍のB25爆撃機が、ニューヨークの空港に向かっていた。ニューヨークは霧が濃かったが、着陸のため高度を下げて着陸しようとしていた。時速400kmで飛行していたB25爆撃機は、9時49分、エンパイアステートビルの79階の北側に衝突して、建物に突入した。79階、80階で火災が発生した。爆撃機のエンジンがエレベータシャフトを落下し、地階でも火災となった。この事故で14名の死者を出した。建物の被害は100万ドル(約1億円)だったが、建物躯体への被害は少なく、事故の二日後に営業を開始した。

 

この事故を契機に、高層ビルは飛行機が突っ込んでも、建物が倒壊しない構造に設計されるようになった。実際、55年後の世界貿易センターにテロの旅客機が突っ込んだ際も、衝突直後の倒壊は免れた。

 

しかし激突により、柱などの構造部材が広範囲に被害を受けていたことに加え、衝突によって耐火被覆が脱落した中で火災が発生したため、鋼製柱が高熱で耐力が低下し、まず上層の重みを耐え切れなくなった階が落下し、これに抵抗できない下階が連鎖的に崩壊していき、最終的には倒壊した。

 

ニューヨークでの20世紀始めの高層ビルの高さ競争は、このエンパイアステートビルの建設で終止符を打った。1931年に建てられたクライスラービルの高さを62m凌ぐ、高さ391m、102階建てのビル(アンテナを含むと448m)は、建築現場のスペースが狭いため、ビルの柱、窓、窓枠などは、工場で予め製造され、60,000トンの鋼材は約500km離れたペンシルバニアの製鉄所から現場に搬入されて、4,000人の建設人員によってわずか1年と45日の短期間で完成した。

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