馬の性能と騎馬隊の戦術の進歩

戦略

中央アジアの文明化した諸政府が広い範囲にわたって安定したのは、騎兵隊の戦術に重要な進歩があったからである。

紀元前100年より前のことであるが、パルティア人は、特別に栽培収穫したムラサキウマゴヤシを飼料にすると、これまでの草原地方で産する毛のふさふさした小馬よりも、ずっと大きくて強く美しい品種の馬が得られることを発見した。この新しい馬は、以前よりもはるかに重い武具に耐えうる。このことは、騎兵と騎馬が完全な武装をするようになり、そのため草原地帯の軽騎兵の放つ矢の威力が減じたという意味で重要である。

事実、こういう重装騎兵は草原地帯の騎兵隊と対等に矢を交えることができ、敵の矢が尽きたとき彼らを戦場から追って必死の退却を余儀なくさせるようになった。だが一方、軽装備の敵に追いつくことも滅多にできなかった。そこでその結果、文明世界の重装騎兵隊と大草原の遊牧民の軽装騎兵の間に一種の手詰まり状態が生じたのである。

いずれの側も相手の勢力圏内では勝てない。大型種の馬は未開の草原で貧弱な雑草をつつくぐらいでは充分な栄養がとれなかったし、一方、耕作地では防具無しの遊牧民は、重い鎧に身をかためた新式の騎兵隊に勝利を収めることはもはや不可能だった。

中国の歴史書に現れる匈奴が紀元前1世紀に漢に討伐され、南北に分裂し、その北匈奴が西方に移動したのがフン族であると言われるが、不明なことも多い。実態はトルコ系・モンゴル系を含む遊牧・騎馬民族と考えられる。2世紀頃、バイカル湖方面から西方に移動を開始し、4世紀には南ロシアのステップ地帯に入り、370年ごろ、ゲルマン民族の一部族である東ゴート人の居住地に侵攻した。それを契機として東ゴート人はそれを逃れるためローマ領内に移動、ゲルマン民族大移動の引き金となった。

フン族はその後、パンノニア(現在のハンガリー)を中心に現在のドイツ、ポーランドを含む地域に帝国を建設、5世紀前半のアッティラ大王の時に全盛期となる。アッティラは東ローマ、西ローマと戦って領土を拡大したが、451年のカタラウヌムの戦いで西ローマ・西ゴートの連合軍に敗れ、翌年イタリアに侵入したが疫病のため撤退、その死後は急速に衰え、滅亡した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました