上海事件

中国

威海衛、1898年にイギリスが清から租借した山東半島の港。中国の遼東半島の先端に位置する港。明代に衛所が置かれたので、威海衛の名がある。清末に李鴻章が創設した北洋艦隊の拠点とされて重要な軍港となった。日清戦争の末期の1895年には日本海軍が威海衛を総攻撃し、清の水師提督丁汝昌が自決、降伏している。

1898年、列強による中国分割の進む中で、イギリスは威海衛を25年間の租借地として清朝政府に認めさせ、イギリス東洋艦隊の基地とし、さらに山東半島を勢力圏とする際の拠点とした。1930年に中国に返還された。

1932年、上海の共同租界で日本人の僧侶が中国人に襲撃されて死亡する事件がおったことを機に、日本海軍陸戦隊が出動し、中国軍と衝突した(第一次上海事変)。中国軍は頑強に抵抗、日本軍は陸軍部隊を増強し、中国軍を上海から撤退させ、停戦協定(淞滬停戦条約)を成立させた。

この戦闘で上海市街は大きな被害を受け、反日感情はさらに強まり、また国際連盟およびイギリス・アメリカなどの国際世論は日本の侵略行為に対する非難が強まった。

1931年の満州事変と翌年の上海事変後、同年の五・一五事件によって政党政治が終わりを告げ、満州国建国、1933年の国際連盟脱退という国際的な孤立の道を歩み、そして1936年の二・二六事件を経て軍部独裁体制が作られ、1937年に中国との全面戦争である日中戦争へと突入するのである。

上海事件は、満州事変での陸軍の成功に刺激された海軍によって主導され、引き起こされた。海軍陸戦隊は満州における中国軍の弱体を知り、容易に勝てると判断していたが、上海を防衛していた中国軍の第十九路軍は、蒋介石系ではなく、広東国民政府系の華南地方出身者が多く、内戦を経験して戦闘力を強めていた。

その点を見誤った海軍は苦戦に陥り、陸軍の増援を要請せざるをえなかった。また、ちょうど同時期に、アメリカ合衆国、ソ連邦も招集されて64カ国が参加するジュネーブ軍縮会議が開催されていた。上海事変への戦火拡大は、強い反発を受けることとなった。国際世論を軽視して軍事行動を強行した点も見通しを誤っていた。

上海事変は日本にとって何らの得るものもなく停戦し、日本軍は撤退した。明らかな失敗であったが、その失敗を隠すように、国内ではこの戦闘で爆弾を抱いて敵陣に突入した日本兵が「爆弾三勇士」として国民的な英雄とされ、歌や映画も作られ、軍国主義化が一気に加速した。

一方、上海事変で中国軍の捕虜となった日本のある将校は、停戦成立後の捕虜交換によって帰国したが、俘虜となって生きて帰ったことを恥じて、まもなく割腹自殺した。陸軍大臣荒木貞夫はこの将校を日本軍人の鑑と持ち上げた。こうして日本兵の中に「生きて俘虜の辱めを受けず」という戦陣訓が現実のものとして定着した。

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