モンゴルの自治

政治

モンゴルは中国とソ連の二大国にはさまれているので、その社会主義政権の成立した事情は複雑であるが、次のように要約されている。

モンゴル人が長く遊牧生活を営んでいたモンゴル高原は清朝によって征服され、藩部に編入されて支配を受けたていた。1911年、辛亥革命が起きるとモンゴルでも独立運動が始まり、チベット仏教の活仏を主権者とする国家の独立を宣言した。

 

1915年には外モンゴル(高原の北部)は中国の宗主権のもとで自治が認められたが、南部の中国に接する内モンゴルは中国領に編入された。1917年、ロシア革命が起こると社会主義の影響が強まったが、中国政府は社会主義の進出を恐れ、モンゴルの自治を撤回した。

 

その後ロシア革命に敗れた白軍が侵入し、モンゴルを支配したが、1921年にスヘバートルやチョイバルサンらが結成したモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党と改称)はソビエト赤軍の支援を受けて、外モンゴル人民臨時政府を樹立した。これがモンゴル革命といわれる動きである。

 

この政府はモンゴル人の象徴であった活仏を元首としていたが、1924年に活仏が死去したため、モンゴル人民共和国として社会主義国家となった。これは1922年のソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に次ぐ世界で二番目の社会主義国家の成立であった。この時、首都を従来のクーロン(庫倫)からウランバートル(「赤い英雄の都」の意味)に改称した。

 

その後もソ連との関係が強く、モンゴル人民革命党はコミンテルンの支部として活動した。1938年から第2次世界大戦後の52年までは人民義勇軍の将軍チョイバルサンが独裁的な権威を持った。

1989年に始まった東欧社会主義圏の激動は、1991年のソ連の解体にまで行き着いたが、モンゴルにものその動きが波及し、早くも翌1992年に社会主義を放棄し、モンゴル国と改称した。

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中世ヨーロッパは暗黒の時代といわれる。キリスト教の教義が、言論の自由や、科学の合理性まで否定したからである。結果、ヨーロッパ諸国はモンゴル帝国の合理的で科学的な攻撃に手も足も出なかった。つまり、神に祈るしかなかったのである。ところが、ここで奇跡が起こる。1242年3月、ハンガリーを包囲していたモンゴル軍に訃報がとどいた。オゴタイ ハーンが死んだのである。

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