徳政令と土倉

政治

1297年に我が国最初の徳政令が出された。鎌倉幕府が制定した御家人所領取り戻しを中心とする法で、文永・弘安の役以降の鎌倉幕府の財政難がはじまりである。そのとき、恩賞をもらえなかった御家人の経済的破綻は、鎌倉幕府の根本を揺さぶることになる。

鎌倉幕府は、御家人が土地を質入することを禁じたがほとんど守られなかった。最後の救済手段として発令されたのが永仁の徳政令である。また、永仁の徳政令の存在が今日に伝わるのは「東寺百合文書」京函所収の文書からわかる。

室町時代の貴族、万里小路時房はその日記『建内記』のなかで、幕府の徳政令を「土倉には経済的余裕があるから、彼らに貧者を救わせようという趣旨だろう」と見ている。有徳人に窮民救済という公共的機能をさせたところに徳政の本質があったという考えである。

 

室町時代の徳政令は、<富める者は喜捨をしなければならない><富める者は貧者を救わなければならない><富める者はその富を社会に還元しなければならない>という有徳思想にもとづいていた。

 

そこで、高利貸しで疲弊した農民たちは徳政を求めて一揆をおこなう。土一揆は整然として、組織性をもって行動し、土倉の主人と団体交渉をおこない、私徳政を開始する日時、5分の1とか10分の1とか少分の返済額をとりきめて質取りをおこなった。

1420年に訪日した尹仁甫は「国に府庫なし、ただ富人をして支持せしむ」と記している。幕府には国家的、公的な金庫や財政機関はなかったのである。幕府は印章・太刀、鎧、衣類など財産を土倉に納めた。また諸国の御料所からの貢納物、守護からの貢納物、段銭なども納められた。日明貿易の勘合符も土倉に保管していた。

土倉にお金を預けておくと、今の銀行に預けているのと同じで、利子がついた。酒屋と土倉からも酒屋役、土倉役という税をとり、幕府の納めている土倉がこの徴収をおこなった。土倉役は年6000貫、米にして6000石であった。米1kgを500円とすると、現在のお金で4億 5千万円となる。

これらが室町幕府の収入と考えられる。徳政令が出たことによって、土倉は大きな被害を受けた。営業を停止した土倉は営業税である土倉役を払わない。幕府は莫大な損害を被る。

室町幕府の中には土倉に借金をして苦しんでいる武士たちもいた。そのような武士たちは徳政令を内心喜んだに違いない。また、土倉を営んでいたのは比叡山など山門につながるものが多く、幕府・守護と対立することもしばしばであった。幕府内部には徳政令によって土倉を痛めつけたほうがよいとする空気が強かった。

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