宋銭の流通

経済

鎌倉時代、日本は深刻なデフレ経済下にあった。宋銭は民間貿易を通して平安時代末期の11世紀頃から日本に持ち込まれ、平忠盛以来、平氏一門が日宋貿易を積極的に保護したことで大量に流入した。しかしながら平家一門が滅亡し、宋銭流通に否定的な鎌倉幕府が成立したことで日宋貿易は政治的な後ろ盾を失った。

さらに宋は銭の大量流出により貨幣不足に陥り、対抗措置として1199年に銅銭輸出を禁止した。一方で鎌倉幕府は貨幣経済の浸透に抗うことは出来ず、1226年に一転して宋銭の使用を公式に認めた。この結果、鎌倉時代は貨幣が庶民に普及し需要が増す中で、肝心な宋銭は新たに供給されない状況になっていた。

 

当然、銭は流通過程で摩耗・消滅することもあり、土地売買データからも、鎌倉時代は深刻な貨幣不足によるデフレ経済に陥っていた実情が窺える。例えば「東寺百合文書」によると、京・山城国の土地が鎌倉時代に25貫文、その90年後の室町時代にはその土地が5貫文で売買されたと記録に残る。

 

また13世紀頃から良質な銭を甕などに入れ埋蔵する備蓄銭(退蔵銭)という慣習が流行したが、これは庶民が貨幣を消費や投資に回さず、貨幣価値の値上がりを期待して、摩損のない良質な銭を保管した一種のタンス預金とも言える。そんな経済情勢の中で2度に渡り元寇が起きた。

戦費調達のために借金をして九州へ向かった御家人衆も少なくなかったであろう。戦には勝利したものの、幕府から十分な恩賞が与えられることはなかったことから御家人による幕府への不満も高まった。

しかも当時の経済はデフレ下にあり、彼らの保有する資産価値(地価)は目減りする一方で、借務残高は利息に応じて肥大するという、資産と債務のねじれ現象が生じた。そんな御家人衆を不憫に思った幕府は、1297年に「永仁の徳政令」を導入した。

 

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