日朝修好条規 日露和親条約

日本

日本は琉球帰属を明確にする目的で琉球船が台湾に漂着し、乗組員が殺害された事件が起こると台湾に遠征し、清国にそれを保民義挙と認めさせた。

明治九年、江華島事件の解決を理由に日朝修好条規を締結した。この条約は朝鮮の独立と平等を認めているが実際には日本が優位に立つ不平等条約であり、日本は朝鮮に対する清国の宗主権を排除して、影響力の拡大をはかった。

琉球国は、明治五年、外務省直轄の琉球藩に改め、国王尚泰を琉球藩王、すなわち中央政府の官吏に任命し、琉球国が締結した条約を継承し、明治七年に内務省の管轄に移し、明治十二年に琉球処分を断行して沖縄県を置いた。

明治十三年、明治政府は「宮古・八重山両群島を清国に与え、その代償として日清修好条規を欧米諸国と清国との条約なみに改訂すること」を提案したが、清国側の異論で調印に至らなかった。

日露和親条約では千島列島の択捉島以南は日本領、ウルップ島以北はロシア領とし、樺太は従来の慣行どおり雑居地としていた。

そこで、明治八年、樺太・千島交換条約を締結し、樺太全部をロシア領、千島列島全部を日本領とし、日本人のオホーツク海・カムチャッカにおける漁業権を承認した。

小笠原諸島(明治十三年)は伊豆十島(明治十一年)とともに東京府の管轄に入れられた。

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