明治政府①

日本

ヨーロッパでは普仏戦争以後、勢力均衡が成立し、ヨーロッパ強国はアジア・アフリカで争覇戦を行った、極東でもフランスはベトナムに、ロシアは沿海州に進出し、さらにロシアは樺太を入手し、朝鮮への進出をも伺っていた

明治政府はこの状況から東アジアの国際関係を弱肉強食と認識し、近隣諸国は列強の進出に対して脆弱だとする判断から、近隣諸国に権力外交を展開した

イギリスはビルマ・チベットに進出する一方、シンガポール・香港をはじめ、本国から上海に至る航路上の要地を占領し、それを強力な艦隊で警護していたから、東アジアの全海域はイギリス艦隊の制圧下にあった。

明治政府は、対英協調を前提に巨費を要する艦隊建設を後回しとし、国内の治安警察にも役立つ陸軍を建設したから治安軍事費は相対的に節約でき、それで殖産興業政策をすすめ、近隣諸国に対する権力外交もイギリスの許容する範囲に限定した。

日清戦争後に朝鮮で次第に勢力を強め、さらに義和団事変後も満州への居座りを続けるロシアに危機感を持つ日本と、三国干渉や中東におけるロシア・ドイツ・フランスの進出を脅威と感じているイギリスが接近するようになった。

イギリスはヨーロッパ列強との外交では「光栄ある孤立」という基本姿勢を続けていたが、アジアにおいてロシアの侵出はインドと中国におけるイギリスの権益に対する脅威として警戒するようになっていた。しかしイギリスは、当時、南アフリカ戦争が長期化し、アジアに充分な力を注ぐ余裕がないという事情があった。

その中で極東での日本の台頭という状況を踏まえ、イギリスは日本との同盟関係を結ぶことによって自国の権益を守ろうとし、日本は条約改正などの国際的地位を高めることをめざしており、またロシアの圧力に対抗する後ろ楯として日英同盟に期待した。

日本では元老の山県有朋、駐英公使加藤高明らが積極的に日英同盟を主張したが、一方で伊藤博文や井上馨らは日英同盟よりも、ロシアの満州支配と日本の朝鮮半島支配を相互に認め(満韓交換論)、ロシアと提携する方が国益につながるとの見解があり対立していた。

両派の対立は結局、ロシアが1900年の義和団事件後も満州から撤退しないことから、ロシアに対する警戒感が強まり、日英同盟論に決することとなった。

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