バルフォア宣言 フセイン・マクマホン協定 サイクス・ピコ協定

外交

第一次世界大戦は、ドイツ帝国・ハプスブルグ帝国とイギリス・フランスとを両頭目とする戦いだった。その頃、東アラブ地域(現在のレバノン・シリア・イスラエル・パレスチナ・ヨルダン・イラク)を支配していたオスマントルコ帝国(イスラム教国)は、ドイツ・ハプスブルグ両帝国と同盟し参戦した。この結果、トルコ領だったパレスチナを含む東アラブ地方は中東戦線の主要な戦場となり、英仏両国軍とオスマントルコ軍がぶつかり合うことになった。

 

イギリスはその戦いの中、戦争を有利に運ぶべく、この地域の戦後処理について後に「三枚舌外交」と呼ばれる、次の三つの相矛盾する条約を結んだ。

 

サイクス・ピコ協定

1916年、オスマントルコ放逐後の東アラブ地域の分割統治に関し、イギリス、フランス、ロシア間で秘密協定締結。(のちにレーニンにこの秘密協定を暴露される)

 

フセイン・マクマホン協定

1915〜16年、在カイロの英国政府代表マクマホンは、メッカ(今のサウジアラビア)の太守フセインに対し、オスマントルコに対する反乱を起こし放逐すれば、アラブ人の独立を認めると約束。

 

バルフォア宣言

1917年、イギリス外相バルフォアは、戦争協力を条件に、ユダヤ人がパレスチナ地域に“National Home”を建設することを承認し支援すると約束。

 

これらの条約によりイギリスは、フランス・ロシアとの同盟関係を強め、またオスマン帝国からのアラブの離反を誘い、そして当時ドイツ国内にも多かったユダヤ人からの経済支援を取り付けた。第一次大戦は1918年、英仏米連合の勝利によって終結し、ドイツ・ハプスブルグ・オスマントルコの三帝国は崩壊した。

 

三つの約束のうち、【サイクス・ピコ協定】は直ちに実行に移され、フランスは現在のイラク北部からシリア、レバノンの各地域、イギリスはイラク中部から南部、及びヨルダンに更にパレスチナ南部を統治地域とした。また、エルサレムを含むパレスチナ北部は国際管理地域とされた。(ロシアはロシア革命により参加できず、これによって上記の外交が後のソビエトから明るみに出ることとなる。)

 

一方、世界各地に二千年間も離散していたユダヤ人は、【バルフォア宣言】を拠り所に、今やイギリスの委任統治領となったパレスチナ地域にどんどん移入を始めた。しかし【フセイン・マクマホン協定】の約束だけは、【サイクス・ピコ協定】が発効した以上、実行はされなかった。その後、イラクは1932年に、レバノンは1945年に、ヨルダンとシリアは1946年にそれぞれ独立を果たし、【フセイン・マクマホン協定】の約束は、パレスチナ地域を除き、遅まきながら実現した。

 

そして最後に残ったのが、ユダヤ人国家の建国問題である。ユダヤ人は第一次大戦後から、パレスチナに帰還を始めこの地域に住みだすが、アラブ人との間に衝突を起こし、テロによる虐殺を受ける。第二次大戦後、70万人ものユダヤ人が入植すると、テロは一段と過激になった。1948年ユダヤ人は強引にイスラエルを建国し、アラブ諸国との間に第一次中東戦争が勃発する。以来、イスラエルは4次に渡る戦争と度重なるテロを潜り抜け、現在もパレスチナの地に入植し続けている。

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