東学と農民軍

中国

1894年7月25日、日本海軍は黄海上の豊島沖で奇襲攻撃をかけて北洋艦隊の戦艦1隻を沈めた。陸上でも日本陸軍が行動を開始、清の朝鮮駐屯軍と7月29日、京城南方の成歓で衝突、清軍は大敗し潰走した。このように日清戦争も日本軍は宣戦布告前に奇襲攻撃を行っている。

8月1日に双方が宣戦布告、清軍は平城に兵力を結集したが、9月16日に全軍が総崩れとなって撤退、平城の戦いは日本軍の勝利となった。海上では翌日、日本の連合艦隊が北洋艦隊を捕捉し、主力艦3隻が撃沈されるという黄海海戦で大敗した。

ここまで、日清戦争の戦場は朝鮮半島と黄海であったが、10月には日本軍が鴨緑江をわたって清国内に入り、遼東半島に侵入、11月に旅順を占領した。

東学と農民軍は、日本軍のソウル占拠をうけて、戦闘再開を準備し、10月から日本軍との戦闘を開始した。すでに清軍との戦闘で勝利していた日本軍は、全力で農民軍との戦闘に兵力を充てたため、農民軍は圧倒され、激戦の末、次第に追いつめられていった。1895年1月、農民軍は壊滅した。

1895年1月末、日本海軍は北洋艦隊の拠点、威海衛を攻撃、陸軍も山東半島に上陸して陸上から攻撃した。2月に水師提督丁汝昌が自決して降伏した。戦意を失った清朝政府は休戦交渉に入り、李鴻章が下関会談で伊藤博文・陸奥宗光らとの交渉に応じた。

この講和会議の間に、日本は台湾併合の既成事実を作るため、台湾に付属する澎湖諸島を占領した。講和会議の結果、下関条約が成立して終結、日本は賠償金とともに、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲を受けるなど、十分な成果を得た。

近代日本にとっては、最初の近代戦の体験であり、その勝利によって大陸侵出の足がかりをつかみ、また2億両の賠償金は国内の製鉄業の育成、金本位制の実施など資本主義体制を確立させることに大きく寄与した。なお、この2億両の賠償金は金塊として支払われ、日本はそれをイングランド銀行に預けた。

日清戦争は日本がアジアの強国として台頭する第一歩となったが、それは東アジアに権益を有するヨーロッパ諸国を強く刺激し、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉によって遼東半島は返還されることとなる。

しかし、台湾を最初の植民地として獲得し、アジアの中で他民族を侵略する立場に立つことになった。この戦争での勝利は、近代日本が国内の半封建的な社会矛盾をかかえながら、アジアに領土・植民地を拡張するため軍事力に依存していくという、軍国主義化の第一歩でもあった。

日清戦争の戦場となったのはほとんど朝鮮半島であった。また日清戦争といいながら、そのなかで日本軍と朝鮮の農民軍が戦った戦争であったことも忘れてはならない。朝鮮にとってはこの戦争に敗れた清国が下関条約によって朝鮮に対する宗主権を放棄したことによって、近代的な主権国家として自立することになった。

しかし、清は後退したものの、日本とロシアの朝鮮の利権を巡る対立が新たに表面化することとなる。その対立は1895年、親ロシアの姿勢を強めた王妃閔妃が日本公使の送った暗殺団によって宮中で殺害されるという閔妃暗殺事件となって現れた。

このような強引な日本の介入はかえって反発を買い、ロシアの侵出が顕著となると、日本では反動的に「朝鮮は日本の生命線だ」という意識が強まり、ロシアの排除を目指して日露戦争へとつながっていく。

コメント

タイトルとURLをコピーしました