上海の租界では外国人は競馬などを楽しみながら優雅な生活を送っていたが、その裏には中国人に対する露骨な差別があった。悪名高い黄浦公園の「中国人と犬、入るべからず」の看板が外されたのは、1925年の五・三○事件、1927年の国民革命と、反帝国主義・民族主義の波が高まったのちの1928年のことであった。
朝鮮に対して清は伝統的な宗主国としての影響力を強く維持しており、それに対して日本は江華島条約以来、経済的進出を強めていた。朝鮮王朝内部にも清との関係を重視する保守派(事大党)と、日本に倣って改革を実現しようとする改革派(独立党)が争っていた。
1884年の甲申政変で独立党のクーデターが失敗し、保守派と結ぶ王妃閔妃と閔氏一族が権力を握っていた。朝鮮での主導権を清に握られた日本は、勢力回復の機会を探っていた。その間、朝鮮では日本資本主義の経済進出によって物価騰貴、穀物不足が続き、外国に従属する閔氏政権への不満が高まっていった。
1889年には凶作が重なり、朝鮮政府が防穀令を出して穀物の日本輸出を禁止したことに対し、日本が貿易に対する妨害であると厳しく抗議して紛争となった防穀令事件が起こった。
甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると、朝鮮王朝政府は独力で鎮圧することが出来ず、清(代表として朝鮮にいたのは袁世凱)に出兵を要請した。日本も天津条約にもとづいて出兵した。日本の介入に驚いた朝鮮政府は農民軍といったん講和した。
農民戦争の講和で日清双方の出兵理由がなくなり、同時に撤兵することで合意した。しかし開戦の機会をさぐる陸奥宗光外相はこれを破棄し、代わって両国で朝鮮の改革に当たることを提案した。理由のないこの提案を清側が拒否すると、陸奥は大鳥圭介公使に対し「いかなる手段を取ってでも開戦の口実を作るべし」と指令した。
日本はソウルを占領して朝鮮王朝に圧力を加え、閔氏政権に代わって、金弘集に内閣を組織させた。しかし金弘集内閣は必ずしも日本の傀儡政権となったのではなく、その改革には封建社会からの脱却を目指す土地改革なども含んでいたが、日本の軍事力を背景とした上からの改革は民衆の支持を受けることはできなかった。
清では光緒帝は開戦論に傾いていたが、李鴻章は配下の北洋艦隊を温存したいため開戦には消極的であった。日本では、明治天皇は「今度の戦争は大臣の戦争であり、朕の戦争ではない」と不快感を表し、伊藤博文も慎重論であった。それは当時、条約改正交渉の相手であったイギリスの出方をうかがっていたからだった。
しかし、日英通商航海条約が成立して治外法権の撤廃に成功し、問題はなくなった。一方ロシアは、1891年からシベリア鉄道の建設を開始していたが未完成であり、アジアへの兵力輸送が迅速にできないことから、介入できなかった。
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