アヘン戦争②

中国

中国政府の特使・林則徐は、アヘン吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言し、イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求した。それが履行されないので貿易停止、商館閉鎖の強硬手段に出て、アヘン2万箱を押収し、焼却した。

清朝がアヘンを没収して焼却したことに対し、それは非人道的な密輸品であったにもかかわらず、イギリス政府と商人は自分たちの「財産」に対する侵害であるから、正当に賠償を請求することが出来ると主張した。

しかし、イギリス政府が開戦に踏み切り海軍を派遣する段階になって、軍隊派遣は議会の承認を必要とするので、初めてアヘン問題が表面化した。議員の中には有害なアヘンを中国に密輸することは人道上問題であるとして軍隊派遣に反対論が広がった。

ホィッグ党政権のパーマーストン外相の開戦案に対して、議会ではグラッドストンなどの反対論も活発であったので紛糾したが、採決の結果、賛成271票、反対262票のわずか9票差で、軍隊派遣が可決されたのだった。

イギリスは、焼却されたアヘンの賠償を要求、それが入れられぬとして両者は1840年11月3日、戦端を開くこととなった。イギリスはインド総督に命じて海軍を派遣、中国海岸を北上し、厦門、寧波を封鎖、南京に至る勢いを示した。

これに驚いた清朝政府は強攻策を放棄し、林則徐を罷免、広州で交渉に当たることとなった。交渉が決裂すると、イギリスは広州を砲撃のうえに上陸して占領、また再び艦隊を北上させ、1842年には上海、鎮江を占領し、南京に迫った。

アヘン戦争の結果、清朝政府は屈服して南京条約の締結となった。この条約では上海などの5港を開港し、香港島を割譲、さらに付則の五港通商章程と虎門塞追加条約含めて中国にとって不利な不平等条約であった。

アヘン戦争は、イギリスの中国侵略とそれに続くアジア植民地支配の大きな契機となった。この後、中国は不平等条約や国土の割譲、租借によって半植民地状態に転化していく。

さらに過酷な国際政治に巻き込まれた清朝は、それまでの中華思想に基づく朝貢貿易という尊大な姿勢を取ることができなくなり、権威を著しく失墜して衰退を早めることとなる。同時にその一方で、外国の侵略に対する中国民衆の運動も、太平天国、アロー戦争と続き、同時期のインド大反乱とともに活発となる。

アヘン戦争はイギリスのアジア支配に対する抵抗運動が始まりであり、中国民衆の独立への自覚が生まれたという面では、中国近代史の主発点でもあった。

アヘン戦争での清朝敗北は、鎖国中の江戸幕府も知るところとなり、高島秋帆の西洋流砲術を採用し、江川太郎左衛門にそれを学ばせるなど軍備強化を図っている。

また、林則徐の友人の魏源の著作『海国図志』(林則徐の西洋研究を継承し、欧米を含む世界の地理、歴史、現状など、中国で最初の本格的な世界地誌)がいち早く日本に輸入され広く読まれている。

若き日のグラッドストン「たしかに中国人には愚かな大言壮語と高慢の癖があり、しかも、それは度を超しています。しかし、正義は中国人側にあるのです。異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしているのであります」

政党と軍部の妥協点に成立した大隈内閣は第一次世界大戦が始まると参戦して山東半島と南洋群島のドイツ権益を手中に収め、ついで中国政府に二十一箇条要求をつきつけてこれを承諾させ、ポーツマス講和で阻止された大陸支配の野望を実現した。

ロシア革命が起きると日華共同防敵軍事協定を結び、アメリカと協力して、シベリアに大軍を送り、沿海州と北満州を日本の勢力圏に収めようとした。

ついで、北方軍閥の段政権に悪名高い「西原借款」を与えて南方革命派の鎮圧に力を貸し、日本に従属させようとした。

しかし、このような日露戦争後の大陸政策はアメリカとの対立を深める一方、レーニンの革命外交とウィルソンの民族自決提唱に鼓舞された民族運動に直面することになり、シベリアではパルチザンの抵抗を受けて苦戦し、また朝鮮の三・一運動、中国の五・四運動に直面して孤立することになった。

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