太平天国軍が迫り、騒然としていた1862年の上海を目の当たりにしたのが、高杉晋作であった。高杉は幕府が貿易の実情の調査のために上海に派遣した千歳丸に長州藩から選ばれて乗り組んでいた。薩摩藩の五代友厚も水夫として乗り組んでいた。
1862年5月6日、上海港に着いた高杉晋作は、その第一印象を『航海日録』に記している。「上海は外国船が停泊するもの常に三四百隻、その他軍艦十余隻という。支那人、外国人に使役されている。憐れ。わが国もついにこうならねばなるないのだろうか、そうならぬことを祈るばかり。」
十八世紀の最後の四半世紀がはじまるころまで、中国の政治体制も経済的秩序もよく機能していたから、あえて外国の事物にかかわる理由はなさそうだった。
だが、1775年ごろから中国の多くの地域で人口が増えすぎたため、農地がどんどん小さな土地に分割されてしまい、不作の年には一家が生きていくだけの収穫が得られないような事態に陥ってしまった。
借金をすれば、結局は土地を手放さざるを得なくなる。その結果、土地財産は金貸しの手に集中し、借金に苦しむ農民は不満を溜め込んだまま、それが散発的な暴動となって噴出した。本格的な反乱は1774年からはじまり、1850年の太平天国の乱にまで発展していった。
このような国内の緊張に、国境の外から厄介な問題が入ってきた。中国の対ヨーロッパ「南蛮」貿易は広東商人の団体とイギリス東インド会社との間に限定されていたが、1834年にイギリスは東インド会社による中国貿易の独占形態を廃止し、ヨーロッパの港で普通に行われているような交易形態を広東にも導入しようとした。
中国人はこれに反対した。中国政府は貿易の公的規制を強化しようとしていたのである。1839年、中国政府は特使を広東に派遣し、非合法の貿易を取り締まり、アヘン輸入を根絶させようとした。
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