中国の袁世凱政府に対しての二十一カ条の要求

中国

日本が韓国を併合し、関東州を租借して半ば大陸国家に転じたとき、中国で辛亥革命が勃発した。

軍部はその混乱に乗じて派兵をはかったが、政府が国際関係を考慮して拒絶すると陰謀的に満蒙独立運動を始め失敗した。軍部は政府に拘束されず出兵できる朝鮮駐屯師団の増設を求め、財政難を理由に拒否した西園寺内閣を陸軍大臣の単独辞職で崩壊させた。

民衆は憲政擁護を叫んで軍部の専制に反対し、桂内閣を倒した。

政党と軍部の妥協点に成立した大隈内閣は第一次世界大戦が始まると参戦して山東半島と南洋群島のドイツ権益を手中に収めた。

第一次世界大戦の勃発の翌年、1915年、日本の大隈重信内閣は、中国の袁世凱政府に対し、二十一カ条の要求を突きつけた。それは五項と二十一条からなっている。

 

第1項「山東省に関する件」日本のドイツ権益を継承を認めることと、芝罘(煙台)と膠済鉄道(青島-済南)をつなぐ新鉄道の敷設権を要求。(全4条)

第2項「南満州および東部内蒙古(内モンゴル)に関するする件」(全七ヵ条)

その主なものは(1)旅順・大連の租借期限を99ヶ年延長すること、(2)日本人の土地租借権と土地所有権を認めること、(3)日本人の居住と営業の自由、(4)鉱山採掘権の承認、(5)政治、財政、軍事についての顧問を求める場合はまず日本政府と協議すること

第3項「漢冶萍公司にかんする件」漢冶萍公司を両国合弁事業にすること(全2条)

第4項「中国政府は中国沿岸のすべての港湾と島嶼を他国に譲渡または貸与しない旨約束すること」

第5項は「懸案解決その他に関する件」(1)中央政府の政治、財政、軍事顧問に有力な日本人を就任させること、(2)必要な地方の警察を日華合弁とするか、あるいは警察官に多数の日本人を採用すること、(3)兵器は日本に供給を仰ぐか、日中合弁の兵器工場を作ること(4)武昌と九江・南昌を結ぶ鉄道、南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること、(5)福建省の鉄道・鉱山開発等はまず日本と協議すること、(6)日本人の布教権、など(全7条)

日本政府(大隈内閣、与党は立憲同志会)は、事前に英、米、仏、露の列強に二十一か条を内示していた。しかし、それは第一から第四項までであり、第五項を秘密にしていた。

それは1~4項は列強も戦争の帰結として当然と受け取るであろうが、第5項は日本が中国を保護国化する意図ととられかねず、列強の既得権やアメリカの「門戸開放、機会均等、国土保全」という中国政策の原則にも反することだったからである。

加藤高明外相は中国政府の実力を軽視する傾向があったので、あえて第5項を加えて迫ったのだった。ところが、中国政府はこのことを知ると、第五項を強調して宣伝した。米英政府は第五項の内容を日本に問い合わせてきたので、外相加藤高明は第五項は「希望条項」にすぎないと弁明し、かえって不信を買った。

そのため政府の予測に反して交渉は難航、2月からはじまり、二十回ほど交渉し、満州・山東などの駐留軍を増強して圧力を加えたが歩み寄りはなく、5月、加藤外相の交渉に不満な元老山県有朋の意見で第五項を削除して最後通牒とした。当時、野党の政友会総裁だった原敬も、中国を侮った外交姿勢を批判している。

5月7日、日本は最後通牒を中国側に手渡し、9日までを期限とした。袁世凱政府は5月9日、やむなく1~4項を受諾した。日本はこれによって山東省の権益と旅順・大連の租借権延長などを獲得した。

 

ただちに反日運動が各地に起こり、5月7日と9日は中国の「国恥記念日」として長く記憶されることとなり、その後も中国民衆の激しい反発を受けることとなった。

このように日本の帝国主義的侵略の野望は根強い中国民衆の抵抗を受け、袁世凱政府の対応の悪さ、英米など列強の干渉などもあって国際問題化し、山東問題といわれるようになる。

日本の要求は過大で高圧的な内容であったが、第5項が秘密にされていた段階では、帝国主義政策をとる列強にとっても日本だけを責めるわけにはいかず、また日本が第1次世界大戦に参戦してドイツとの戦争に加わった見返りの意味もあって黙認、基本的には容認した。

しかし、中国が第5項を暴露すると、アメリカとイギリスは、第5項には中国保護国化の恐れがあるとみて警戒し、中国を擁護し、日本に第5項の取り下げを要求した。

5月に日本が第5項を取り下げたことを評価し、アメリカは11月に石井・ランシング協定を締結した。それは、アメリカの主張である中国の領土保全と門戸開放を日本が認める一方で、アメリカに日本の山東省権益を認めさせた。

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