終戦直後の労働運動が生み出した生産管理闘争は、経営層を除いて管理職も含む従業員集団がそのまま企業を経営するというユニークな争議手段でした。1945年10月から12月の読売新聞争議では、社長らを排除して編集・印刷・発行が闘争委員会の下で行われ、これが他の企業にも燃え広がっていったのです。
これに対し政府は1946年6月13日に「社会秩序保持に関する声明」を発表し、生産管理を違法として否認する態度を明らかにしました。
1955年の「生産性三原則」は、まず「生産性の向上は、究極において雇用を増大するものであるが、過渡的な過剰人員に対しては、国民経済的観点に立って、能う限り配置転換その他により失業を予防するよう官民協力して適切な措置を講ずるものとする」と述べて、雇用維持を基本方針と定めています。
また「生産性向上のための具体的な方式については、各企業の実情に即し、労使が協力してこれを研究し協議するものとする」と、企業ごとの労使協議制を確認し、さらに「生産性向上の諸成果は、経営者・労働者及び消費者に、国民経済の実情に応じて公正に配分されるものとする」と、労使間での公正配分を唱っています。
この年、1955年をもって『日本型雇用システム』が理念として確立したといってよいでしょう。
1969年に開始された国鉄における生産性運動(マル生運動)。当時国労は現場協議制を階級闘争主義に基づく職場闘争の手段として利用しており、これに対して国鉄当局は日本生産性本部の協力の下、管理監督者層に対する生産性教育を始めました。
それとともに、国労の組織率が急落するという事態が進み、国労は組織防衛のため、全面的に反マル生運動を展開することになります。そして、1971年10月公労委が生産性運動の一部に不当労働行為があったと判断、磯崎総裁が国会で陳謝したことで、当局側の敗北のうちに生産性運動は中止されることになりました。
日本生産性本部の歴史における最大の失敗と言えましょう。その結果、管理職に対する吊し上げや業務拒否、ヤミ慣行やヤミ協定が横行するに至ったといわれています。その後1980年代に国鉄が民営化され、勝ち誇っていた国労がその過程で奈落の底に突き落とされたことは周知の通りです。
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