日本・朝鮮・満州の経済一体化による資源自給圏確保の構想

日本

第一次世界大戦に航空機と戦車が主戦力として登場した結果、陸軍の近代化には重工業の育成と石油資源の確保が不可欠であることが分かり、ここから日本・朝鮮・満州の経済一体化による資源自給圏確保の構想が生まれた。

第一次世界大戦によるヨーロッパ情勢の悪化のため日本の中国進出を座視せざるをえなかったアメリカは戦争が終結するとワシントン会議を召集し、九箇国条約で中国の領土保全と機会均等の原則を確認したうえ、ベルサイユ条約によりいったん承認された山東利権を含む二十一箇条要求の一部も廃棄をせまった。

1919年、パリ講和会議の結果、パリ郊外のベルサイユ宮殿鏡の間でベルサイユ条約が調印された。第一次世界大戦の連合国とドイツの間の講和条約である。べルサイユ条約の精神は、フランスによるドイツに対する報復という面が強く現れ、ウィルソンの国際協調の精神は第1編の国際連盟規約に生かされたにとどまった。

またレーニンが「平和についての布告」で提唱した無賠償・無併合の理念もまったく無視された。これ以降のヨーロッパの国際秩序をべルサイユ体制というが、敗戦国ドイツに苛酷な負担をしいたこの体制は、1936年にドイツのヒトラー政権がロカルノ条約を破棄してラインラントに進駐することによって崩壊する。

パリ講和会議に参加した中国は、日本の山東省権益の継承が承認されたことに反対する五・四運動が盛り上がったため、ベルサイユ条約の調印を拒否した。北京政府は調印を指令したが、代表として会議に参加していた顧維均が、本国民衆の調印反対の声を聞いて、独自に判断したという。

また、パリ講和会議において、日本はアメリカで高まった移民排斥問題(移民法)をとりあげ、国際連盟規約に「人種平等原則」を入れるよう主張し、賛成の国も多かったがアメリカ大統領ウィルソンの反対で採択されなかった。

第一次世界大戦後の軍縮問題は、国際連盟でもテーマとなったが、アメリカは国際連盟に不参加であったため成果を上げることができなかった。かわって、もっぱらアメリカを含む大国による国際会議で協議されることとなった。

その最初が1921年から1922年のワシントン会議であり、アメリカのハーディング大統領が提唱し、イギリス・日本・フランス・イタリアなど9ヶ国が参加し、海軍軍縮と太平洋・中国問題に関して協議された。日本の代表は加藤友三郎・幣原喜重郎らであった。

アメリカの関心事は海軍の軍縮問題とアジアの情勢であった。アメリカはアジア地域において日本の中国及び太平洋地域への進出を大きな脅威と見ていたので、日本を抑えるための国際的合意作りを目指したのであった。

海軍軍備制限条約によってアメリカ合衆国・イギリス・日本・フランス・イタリアで、5:5:3:1.67:1.67の比率で艦艇数が制限されることになった。大戦前の英独の無制限な建艦競争が戦争に結びついたことから、五大国が互いに制限することに合意した。

アメリカとイギリスが同率とされたことは、イギリス海軍の大きな譲歩であった。なお、ドイツ海軍はヴェルサイユ条約で大きく制限されている。

また、九箇国条約の成立によって、アメリカが1899年の門戸開放宣言以来の主張である中国の主権尊重・領土保全の原則を各国が承認し、別に関税に関する条約、山東懸案に関する条約が成立した。

この結果、日本が1915年の二十一箇条の要求によって獲得した旧ドイツ租借地の膠州湾などの山東における特殊権益を放棄して中国に返還した。また1917年のアメリカとの石井・ランシング協定は破棄された。

ワシントン会議では東アジア・太平洋地域での国際秩序を第一次世界大戦前の状態に戻すことが確認された。1920年代に国際協調が進むなかで、日本は大きな後退を余儀なくされた。

さらに日本だけが撤退していなかったシベリア出兵についても、1922年10月までに撤兵を約束した。この会議で作り出された、東アジア・太平洋地域の国際秩序をワシントン体制といい、ヨーロッパ国際秩序であるベルサイユ体制と並んで、両大戦間期の国際協調を支える体制となった。

ワシントン海軍軍縮条約は主力艦制限で合意したものだったので、次に補助艦制限が問題となった。1927年、ジュネーブ海軍軍縮会議が開催されたが、仏伊が参加拒否、英米が対立したために失敗した。1930年、ロンドン海軍軍縮会議が開催されたが、世界恐慌後の各国が軍備増強に向かう中、これも結局失敗に終わった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました