日清戦争の敗北

中国

日清戦争の敗北は清朝にとってベトナムをめぐる清仏戦争での敗北とともに、大きな衝撃となった。台湾の割譲、2億両の賠償金、朝鮮宗主権の放棄は清朝にとって屈辱であっただけでなく、国家のあり方への反省の機会を与えた。また“眠れる獅子”清朝の敗北は、帝国主義列強による1898年の中国分割につながった。

清の敗北の理由は、日本が幕藩体制を克服して近代的な国家体制を整えていたのに対して、清の洋務運動では富国強兵策がとられたものの、中体西用の思想によって技術面だけの西欧化にとどまり統一的な国家意思の形成がなされなかった。日本軍と戦った清軍の核をなす北洋軍は、李鴻章の私兵にすぎなかった。

日清戦争の敗北はそのような問題点を白日の下にさらしたので、下関条約締結反対を主張する洋務派の官僚や知識人、青年の中に近代的な政治体制の確立をめざす運動が始まった。その中心となったのが康有為や梁啓超らであり、彼らの改革への熱心な提言を取り上げたのが光緒帝による戊戌の変法であった。

軍事面では、袁世凱がドイツ人将校の指導ではじめて西洋式陸軍である新建陸軍(新軍)を編成した。しかし、この改革は西太后ら保守派の反対で潰される。次いで1900年には義和団事件が勃発し、乱後の光緒新政も失敗し、清朝の滅亡へと加速していく。

また、日清戦争での敗北は、対外的にはそれまで“眠れる獅子”と言われていた清朝が同じアジアの新興国で小国に過ぎない日本に敗れたことによって、その弱体をさらすこととなった。三国干渉で清朝を助けたロシア・フランス・ドイツはその報酬を要求して中国分割に乗り出した。

すでに中国に大きな利権を得ていたイギリスも同調し、1898年には次々と租借地を獲得し、勢力圏を設定していった。出遅れたアメリカは門戸開放宣言を出して利権に割り込みを図った。

それらの中で特に積極的な動きを見せたのが、露土戦争後のベルリン会議でバルカン方面への進出にストップをかけられたロシアと、朝鮮半島への進出を開始した新興国日本であった。

イギリスはロシアの進出を警戒して、1902年に日英同盟を結び、日本をアジアにおけるパートナーとする。こうして日清戦争後のアジアの国際情勢は、ロシアと日本の対立を軸に展開されることになる。

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