「匈奴」の形成

中国

中国を統一した秦の始皇帝は抜本的行政改革を断行した。全国は郡と県に分割され、その境界は現代まで続いている。文字の書体も統一し、これも直ちに普及したので以前書かれた書物は多かれ少なかれ読みにくくなった。遊牧民の侵入を防ぐ万里の長城も建設し、また効果的な道路と駅逓組織を設けたが、これは国境が外敵に脅かされたり地方で反乱が起こったとき、軍勢を引き連れて急行できるようにするためだった。

始皇帝は中国統一後直ちに攻勢に出て、たくさんの諸部族を内蒙古から追い払い、ゴビ砂漠の彼方、外蒙古の貧弱な草原地帯へと敗走させた。これらの逃亡者たちが核となって草原の蛮族の連合体「匈奴」が形成された。

匈奴はやがて恐るべき強大さに達し、漢王朝との戦いで内蒙古の以前の版図を回復し、草原地帯を越えて西方にその支配の手をのばしはじめた。その過程で匈奴はイラン語系に属するさまざまな民族をその居住する地域から追い立てたが、これら諸民族は逃れて南西に移動し、ギリシャ・バクトリア王国を滅ぼした。

ギリシャ・バクトリア王国

紀元前255年頃から紀元前139年まで、現在のアフガニスタン北部から北西インドを支配した国。アレクサンドロス大王の遠征に従軍したギリシャ人が建てたヘレニズム諸国の一つ。アレクサンドロス大王の死後、セレウコス朝シリアの領土となったが、紀元前255年ごろギリシア人総督に率いられて独立した。都はバクトラ。

アレクサンドロス大王の東方遠征で最も激しく抵抗したのがバクトリアであった。バクトリアにはイラン人の宗教であるゾロアスター教の伝統が強く残っていたので、アレクサンドロス大王はこの最後まで抵抗した地域を征服した後で、戦略的にも重視し、ギリシャ人の総督を置き、いくつかのギリシャ人都市を建設した。さらに、アレクサンドロスと将軍たちはイラン人貴族の女たちと結婚した。部将の一人セレウコスはバクトリア人の戦争捕虜であるアパマを選び、息子のアンティオコス1世をもうけた。

紀元前2世紀にはメナンドロス王のもと最盛期となり、イラン高原のパルティアとは友好関係を保ち、マウリヤ朝の衰退に乗じてインドの西北まで侵入した。これによって、ヘレニズム文化がインドに及び、ガンダーラ美術が生まれることとなる。

その後、前139年にスキタイ系遊牧民トハラ(大夏)によって滅ぼされた。次いでイラン系の大月氏が匈奴に追われて東方から入り、この地を支配した。続いて大月氏の一族から有力となったクシャーナ族がこの地から北インドにかけてクシャーナ朝を建国した。

紀元前102年の漢の西域遠征、その少しあとでのクシャン朝の設立、紀元前171年のパルティア人の帝国建設により、中央アジア、西アジアのオアシスと草原の地に、やや安定した秩序が回復した。

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