「平和についての布告」「14ヵ条の原則」

外交

第一次世界大戦が開始されると、アメリカ合衆国は当初は中立を維持していた。1917年4月にウィルソン大統領は議会の同意を得てアメリカの第一次世界大戦参戦に踏み切って、連合国(協商国)側の一員となった。アメリカの参戦は大戦の戦況に決定的な影響を与え、連合国側が優勢に転じた。

同じ1917年に3月にロシア革命が始まり、11月にはソヴィエト政権が成立して、レーニンが「平和についての布告」を発表し、即時講和・秘密外交の廃止を宣言、ドイツと単独講和の交渉が始まるという協商国側にとって不利な展開となったため、ウィルソン大統領は、1918年1月議会で演説、次の「14ヵ条の原則」(the Fourteen Points)を発表し、戦争目的の明確化と戦後処理の方向性を示した。ウィルソンは1919年度のノーベル平和賞を受賞している。

 

 

1917年11月8日、レーニンが全ロシア=ソヴィエト会議で提案し、承認された「平和についての布告」。第一次世界大戦の交戦国に対し、「労働者・兵士・農民の代表者のソヴェートに基礎をおくところの、労働者農民の政府ほ、全交戦諸国の人民とその政府にむかって、公正で民主的な平和のための交渉を、即時開始することな提言する」とし、「無賠償(敗戦国から賠償金を取らない)、無併合(敗戦国の領土・国民の併合をしない)による即時平和」を実現するための交渉をただちに開始するよう呼びかけた。

 

あわせて民族自決の原則と、従来のあらゆる秘密条約を廃棄し、秘密外交を否定することを声明した。

これはドイツとの戦争を継続している連合国(協商国)およびアメリカに衝撃を与えた。

 

連合国は11月末、パリで対策を協議し、アメリカ(ウィルソン政権)やイギリスはソヴィエト政権を承認し、新たな戦争目的を表明することを主張したがフランス(クレマンソー)、イタリアが強く反対し、結局、連合国としてはソヴィエト政権を承認せず、「平和についての布告」と秘密条約の破棄には無視の態度となった。

 

また、ソヴィエト政権のドイツとの単独講和に対しても、イギリスとフランスは12月に英仏秘密協定を結んで、対ドイツ戦を維持するために干渉することで合意した。さらに英仏は、シベリア東部に関しては地理的に近いアメリカと日本に干渉を要請した。こうして対ソ干渉戦争が開始され、シベリア出兵が準備されることとなった。

 

一方、ドイツは直ちにソヴィエト政権の呼びかけに答え、停戦の交渉に入った。1917年12月15日にブレスト=リトフスクで休戦条約(講和ではない)に調印し、東部戦線では停戦が実現した。  アメリカ大統領ウィルソンは、ソヴィエト=ロシアの「平和についての布告」に対抗し、新たな戦争目的を表明する必要があると考え、翌年1月「十四ヵ条の原則」を発表した。

 

レーニンはこの提言が受け入れられず、全面的な停戦に至らなかったため、ロシア帝国が関わった秘密同盟をすべて暴露し、その後の秘密外交の禁止という新外交の原則への移行をもたらした。

 

レーニンが革命の過程でもっとも大胆な行動を起こしたのが、1918年1月の憲法制定議会の閉鎖であった。これはロシアで最初の普通選挙によって議員を選出し、憲法を制定することを目的としていたが、選挙の結果はボリシェヴィキは第1党になれず、議会を通じて革命的政策を実現することはできなかった。レーニンはそのような議会政治に決別すべく、ボリシェヴィキの武力を動員して議会を閉鎖し、ボリシェヴィキ独裁を実現させた。

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