日本をとりまく海洋は、産業革命により鉄製蒸汽船が出現し、大量輸送のすぐれた交通路に転ずるまで、文明の浸透と文化交流を阻止するのと同時に外敵の侵攻を抑止する巨大な防壁となった。
そこで前近代の日本は中国漢字文化と西欧文明の影響をうけながら独自の文化をつくりあげたのみでなく、中国を軸とする華夷秩序と西欧国家系の双方から独立した、大君外交という独自の国際秩序を形成した。
それは外交主権者として将軍を大君と称したことに由来するもので、国交を朝鮮と琉球にかぎり、通商も中国とオランダ商船の長崎寄港に限定し、さらに国民の海外との往来を厳重に禁ずる体制であった。
それは幕府が貿易と海外情報を独占統制し、それにより国際紛争の発生を回避するものであった。
こうして将軍は一面では地域的権力である大名に相対的自治を容認する、全国の約6分の1を領有するにすぎない封建領主にとどまりながら、他方では全国土の防衛に責任を負う対外的元首として外交権を行使した。
この矛盾は、海外からの脅威を無視し、長大な海外線の防衛と、海軍整備を放棄することにより糊塗されていたが、列強の東洋進出とともに大君外交とそれを支える幕藩体制は矛盾を噴出させた。
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