イギリスの金本位制移行後

経済

イギリスが1817年に金本位制へ移行して以降、各国はその後を追い、ポルトガルは1854年、カナダは1867年、ドイツは1873年、アメリカは1879年、オーストリア・ハンガリーは1892年、ロシアは1897年、日本は1897年に金本位制を採用している。

ラテン貨幣同盟は、1860年代にイギリスを中心に経済的実力を有する大国が金本位制へと移行する大きなトレンドを変えることは出来なかった。1870年、普仏戦争の開戦にともないフランス銀行が免換を停止し、1871年に勝利したプロシアがドイツ帝国を建国し、敗戦国フランスが完全に欧州大陸における主導権を失ったことは「銀本位制」の凋落を決定的なものにした。

 

ドイツ帝国として統合された国は25カ国にのぼり、国々は七つの通貨圏に分かれ、119種類の金貨・銀貨・補助貨幣、56種類の政府紙幣、33の発券銀行が発行する117種類の銀行紙幣が使われていた。これらは銀本位貨幣であったが、ドイツ帝国は、フランスからの賠償金を金に換え、それを裏づけとする金本位貨幣「マルク」を発行し、混乱を極めていた貨幣制度を一元化したのである。ただし、賠償金を課せられたフランスが、直接、金・銀によって支払った金額は、総額50億フラン(金貨換算で1613トン)のうちわずか各々2億7300万フラン相当にすぎなかった。フランスは、国際銀行団を組織し、ドイツが発行した債券・債務証書を買い漁り、こうした外貨によって支払いを済ませたのである。ドイツは、自国に還流した債務証書をロンドン市場で売却し金を得たのである。

 

ドイツ帝国は、「銀本位制」から「金本位制」へ移行し、銀を市場で大量に放出した。その結果、金に対する銀の価値が暴落し、金銀複本位制(実質的な銀本位制)を採用していた国々の経済に大打撃を与えたのである。銀本位制の国々は、銀貨の横溢や金貨の流出を防ぐため、銀の自由鋳造停止に追い込まれ、以後「金銀複本位制」をベースにする「ラテン通貨同盟」は実質的に機能しなくなり、やがて1927年には解散された。

1872年、金本位制に基づく通貨同盟である「スカンジナビア通貨同盟」がスウェーデンとデンマークにより締結され、1875年にはノルウェーが参加して3ヶ国で実施された。「スカンジナビア通貨同盟」は、通貨単位は「クローネ」で統一し、10クローネ金貨と20クローネ金貨を共通通貨として定め、純度は90%にきめられた。しかし、現実に流通したのは金貨ではなく紙幣であり、加盟3力国の中央銀行は相互に勘定を持ち、貿易などの決済をその勘定で行った。1914年、第一次世界大戦が始まると、金輸出禁止措置が採られて金本位制が停止され、通貨同盟は事実上機能しなくなり、1924年に解散された。

 

1900年、アメリカは、金本位法を公布し、法的に金本位制へ移行した。経済的実力をつけて世界経済に重要な役割を果たすようになったアメリカが、世界の中で圧倒的な存在感を示すようになったのは、第一次世界大戦において戦中・戦後の疲弊した欧州に対する物資供給を担ったからで、その前後からアメリカの金準備は激増した。第一次世界大戦に突入すると、各国は金本位制を一旦離脱し、1917年にはアメリカも金梵換を停止した。しかし、戦後、1919年にアメリカはいち早く旧平価で金本位制へ復帰を果たし、1925年にイギリスがやはり旧平価で金本位制へ復帰した。次いで、1927年にイタリア、翌1928年にはフランスも金本位制へ復帰を果たしたが、旧平価を大幅に切り下げての復帰であった。旧平価による英ポンドの金本位制復帰は、米ドルに対して10%の過大評価と言われ、結果として輸出不振と国際収支の悪化を招いた。これに対して、約五分の一に切り下げられた新平価の仏フランは、対米ドル10%の過小評価で、輸出を促進して貿易収支を黒字に保ち、いわゆるポアンカレ景気をもたらした。弱い英ポンドと強い仏フランの対照は、後に再建金本位制崩壊の一因になった。

 

各国の金本位制への復帰によって国際通貨秩序は小康状態に入ったが、その裏では欧州からアメリカへの金の流出が生じ、国際通貨制度は不安定さを高めていった。アメリカの金準備は、1913年の2293トンが、1920年3679トン、1925年5998トンへと急増を続け、未曾有の信用拡大と経済的繁栄の中で、株式市場でバブルが生じ、1929年の株価大暴落から世界大恐慌へ至ることになる。

1931年、イギリスは、高すぎる平価による輸出不振に加え、世界大恐慌による需要落ち込みに晒され、金の大量流出に苛まれ、金本位制を停止し、その他の金本位制をとる各国もこれに追随したため、世界の通貨制度は金本位制を離れて漂流する混乱期へと突入した。

こうして、第一次大戦後に復活した金本位制は、世界大恐慌によって崩れ去り、各国は競って貿易/為替の直接的管理政策を採用し、輸出を伸ばすための為替平価切下げ競争、輸入を制限するための報復的関税引上げ競争を繰り広げ、保護貿易主義/ブロック経済化が蔓延し、世界貿易・投資を著しく縮小させ、世界の不況を深刻化させていった。通商は政府間の物々交換協定を通じて行われるという有様であった。

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