金本位制と大英帝国

経済

1851年、ロンドンで万国博覧会が開催された。これは、ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公や芸術・工業・商業振興のための王立協会メンバーによって近代の工業技術とデザインの祝典として組織されたもので、ハイド・パークに建設された会場クリスタル・パレス(鉄骨とガラスで作られた巨大建造物)は、産業革命の成果を世界中に知らしめる大英帝国の経済的繁栄の象徴となった。

1860年〜70年代にかけて、世界的に、金本位制へ移行する国が相次いた。その背景には、産業革命とインドなど植民地経営によって未曾有の経済的繁栄を調歌していた大英帝国が金本位制を採用しており、貿易上・政治上、価値尺度を大英帝国にそろえておいたほうが有利だったためと考えられる。

この頃、イギリスと、世界経済における覇権を競って対立していたのがフランスである。フランスは、1803年、ナポレオン1世が「フランス貨幣法」を施行し、(1)品位90%の銀5gをもって貨幣の単位とし「フラン」と称する 、(2)金貨ならびに5フラン銀貨を無制限の法貨とする、(3)金銀比価を1対15.5とする、(4)金銀両本位貨についてはともに自由鋳造を認める、などと定め、「金銀複本位制」を採用したが、金銀比価の設定が銀に有利になっていたため、実質的には銀本位制として機能するようになった。フランスの金準備は、1870年当時、世界全体の金準備713トンの30%(217トン)を占めており、統計上はイギリスの23%(161トン)よりも多かったので、イギリスに対する対抗心から意図的に金本位制を避けたものと考えられる。

イギリスの金本位制、フランスの実質的銀本位制の二つの通貨圏のいずれに属することが貿易上・金融上有利かという観点から、多くの国は1860年代から1870年にかけて思案し、結果、大英帝国側につくことが有利と見て、一斉に金本位制へ移行したのである。

フランスと同じ実質的な銀本位制を採用していたベルギー、イタリア、スイスなどは、1860年頃から銀貨の流出・欠乏に悩まされるようになり、銀貨の純度を落とすことで対応しようとした。その結果各国の平価に乱れが生じ、国際的な貨幣の流通や決済に障害を生じるようになり、こうした無秩序を収拾するために、1865年にラテン貨幣同盟(1865〜1927)が締結された。フランス、ベルギー、イタリア、スイスの4力国は、1803年フランス貨幣法の規定を敷衍し、金貨/銀貨の品位は90%、金銀比価は「1対15.5」とした上で、(1)同盟国政府は同盟国の金貨並びに5フラン銀貨を無制限の法貨として自国貨幣と同様通用させること、(2)補助貨幣は一口の支払い50フランを限度として法貨たり得ることとし且つ同盟国間においては他の同盟国の補助貨をも自国貨幣と同様に受け取ること、(3)同盟国間においては同盟国の発行にかかる銀貨を金貨に引き換える義務があること、など共通の貨幣制度を定めた。

その後、ラテン通貨同盟の加盟国は、1868年にギリシャが加盟しただけで広がらなかったが、1868年にスペイン、1889年にはルーマニア、ブルガリア、セルピア、モンテネグロ、サンマリノなど多くの国々がラテン通貨同盟の基準を採用した。銀本位制を採用していたアメリカは、ラテン貨幣同盟が成立した1865年当時、南北戦争の混乱で銀梵換を停止しており、ラテン貨幣同盟への加盟を検討したが、結局は加盟も基準採用もせず、1847年にカリフォルニアで発見された金鉱山から始まったゴールドラッシュを背景に増大しつつあった金準備を背景に、実質的な金本位制へと移行したのである。

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