貨幣経済からの離脱

経済

皇朝銭の鋳造停止以後、国が貨幣を発行しない時代が長く続いたが、10世紀末の平安京への遷都から約200年間は、通貨として「米」や「絹」などの「物品貨幣」が利用された。この貨幣経済からの離脱は、日本の国家運営能力を地に貶めた。

春秋戦国時代には、金銀を通貨の代用品として高額の支払に用いる例が増えてくるが、孔子をはじめとする儒学者は重農主義・身分制重視の立場から、金銀による支払は商人の力を強化するだけで社会秩序を崩壊させるだけだとして強く批判した。

中国統一を果たした秦は金貨を発行したものの、儒教が国教化された前漢以後明に至るまで金貨・銀貨の発行がほとんど行われず、却って金銀による支払を厳しく規制した背景にはこうした思想的な問題があったとされている。

 

聖武天皇は、平城京を出て、恭仁京、紫香楽宮、難波京と彷徨を続け、再び平城京に戻ったが、その間、宮廷や役所の移転費用が多額に上った。更に、聖武天皇は、東大寺の大仏の建設にとりかかり、建設費支払いのために和同開珎が増産され激しいインフレが生じた。

さらに、東大寺を筆頭に、諸国に国分寺・国分尼寺の建設を行い、数万人の僧・尼僧を出家させ、これら全てを国費で行ったため、膨張した財政支出で経済は極端に疲弊した。内乱や疫病も流行し、「租庸調」の徴税も進まず、結局、貨幣増産による貨幣発行益に頼るしか財政再建の道はなくなってしまう。

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