織田信長が永禄12年(1569年)に制定した金銀比価は「1:7.5」であり、灰吹法によって特に銀の生産性が向上したため、金銀比価は、天正年間に「1:10」、慶長年間には「1:12」となり、銀安がすすんだ。これにより、当時「1:9」だった中国へ銀を輸出し、金に代えて、持ち帰ることが有利となり、銀流出/金流入の構造が戦国時代末期から江戸時代初期にかけて生じた。
17世紀前半、1601年に発見された佐渡金山は、慶長から寛永年間にかけての最盛期に金を1年間に400kg、銀を40トン以上生産する日本最大の金山となり、日本から金銀が大量に輸出された結果、東アジア全域で金銀比価の平準化が進み、「1:13」前後になったとされる。金銀比価の平準化にともない、江戸時代中期には、金銀の裁定取引はおこなわれなくなった。
文政・天保の改鋳において、金貨・銀貨の「額面価値」比率が、改鋳差益を得ようとして、銀高方向へ大きく修正され、天保一分銀の金1両当たりの銀量は9.1匁と南鐐二朱銀(21.1匁)の43%にまで低下した。「額面価値」で銀貨が流通するようになったため、日本における金銀比価は、国際相場「1:15」を大きく上回る「1:6」程度にまで上昇していた。こうした国際水準と乖離した価格は、鎖国による内外金融市場の遮断によって支えられていた。しかし、1859年6月に神奈川・長崎・函館の3港開港により、アジア経済圏での貿易決済貨幣として流通していたメキシコ・ドル銀貨(洋銀)を日本に持ち込んで金に交換すると、国際相場の約3倍の金貨を手にすることができたため、アメリカ、イギリスなどの商人が活発な金銀の裁定取引を行い、合計50万両程度の金貨、当時における金貨流通高の約2%、もしくは金銀流通高の1%程度の金貨が、僅か1年のうちに流出したとされる。
開港直前の1859年5月、金の流出を懸念した幕府は、額面価値を半分に落とした安政二朱銀を新鋳して海外なみの金銀比価を実現しようとしたが、諸外国から強い反発にあって中止に追い込まれている。相当な金額の金貨が海外へと流出していった。1860年2月、天保・安政小判の対銀貨通用価値を約3倍に引き上げる「直増通用令」を発出したが実効性がなく、1860年4月に1両当たりの金量を約3分の1に引き下げる金貨の悪鋳を断行した。これにより金貨の海外流出に歯止めがかかったが、純金量が3分の1に引き下げられた万延金貨が大量に鋳造され、旧金貨に約二倍のプレミアムをつけて交換されために、国内の金貨流通量が著増してインフレーションが引き起こされた。インフレに苦しむ中、日本は明治維新を迎えたのだった。
1871年(明治4年)、明治新政府は、「新貨条例」を制定し、通貨単位を「両」から「円」に改めると同時に従来の4進法(両・分・朱)を10進法(円・銭・厘)へ切り替え、20円・10円・5円・2円・1円の計5種類の金貨を発行して本位貨幣とする金本位制を導入した。当時明治政府が鋳造し流通していた明治二分判(量目3g 金純分22.3%)2枚(=1両)の純金および純銀含有量の合計の実質価値に近似でもあり、新旧物価が1両=1円として連結し、物価体系の移行に難が少ないとして採用された。そして、海外との平価は、1円=純金1.5グラム=1両=1米ドルと定めた。
明治新政府は当初、徳川幕府時代の三貨制度(金貨二小判、銀貨二丁銀・分朱銀、銅貨二文銭が無制限通用を認められていた)を引き継いで、幕藩時代の金銀銭貨や藩札をそのまま通用させる一方、通貨不足解消のために自ら太政官札や民部省札などを発行し、更に民間の為替会社にも紙幣を発行させていた。しかし、各種通貨間の交換比率は非常に複雑になり、また偽造金貨・紙幣が横行し、通貨制度は混乱をきわめていたのである。
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