日本における近代貨幣(終戦~)

経済

1945年8月15日、終戦を迎えると、(1)賠償引当、占領経費の円建て支払い、戦時中の軍発注物資の代金精算のために膨大な紙幣が増発されたこと、(2)生産設備の壊滅、経済統制の弛緩、不作といった物資不足・供給制約下での需要増、(3)戦時中の金融統制の歯止めがなくなったこと、(4)現金確保の為の預金引き出し、などがあいまってハイパーインフレーションが発生し、円紙幣は紙屑同然となってしまった。

 

1946年2月16日夕刻、幣原内閣は、戦後インフレーション対策として金融緊急措置令をはじめ、新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止、などの通貨切替政策を発表した。(1)国民の現金保有を制限するために、発表翌日の17日より預金封鎖して預金引出しを停止し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる。(2)1946年3月3日付けで旧円の市場流通を差し止める。(3)一世帯月の引き出し額を500円以内に制限する。これらの措置には、インフレ抑制とともに、財産税法制定・施行のための資産把握の狙いもあった。これによりハイパーインフレの抑制には一定の成果はあがったものの、結果として市民が戦前に持っていた現金資産は、債券同様に無価値同然に陥る結果となった。

しかし、硬貨や小額紙幣は切替の対象外とされ、新円として扱われ効力を維持した。そのため小銭が貯め込まれた。また市民は旧円が使えるうちに使おうとしたため、旧円使用期限までの間は、当局の狙いとは逆に消費が増大した。

 

 

占領軍軍人は所持する旧円を無制限で新円に交換することができた。十分な新円紙幣を日本政府が用意できないため、占領軍軍人への新円支払いにはB円軍票が用いられた。

新円紙幣の印刷が間に合わないため、回収した旧円紙幣に証紙を貼り新円として流通させた。この際に証紙そのものが闇市で出回っていたという証言がある。証紙付き紙幣は後に新紙幣との引換えが行われた後に廃止され無効となった。

国民の多大な犠牲によって誕生した新円は、対外的には、ブレトンウッズ体制の枠組みの中で機能することになった。

1945年に発効したブレトンウッズ体制においては、米国のドルのみが金兌換を保証し、その平価は金1オンス=35ドルと定められ、各国通貨はドルとの交換比率を固定することで、間接的に金にリンクするという「ドル本位制」が採用された。この時、1ドル=360円と定められたため、1円=金2.4685ミリグラム(=0.0024685グラム)となった。

 

「金ドル為替本位制」を運営するために国際通貨基金(IMF)が設立され、国際復興開発銀行(IBRD)が戦禍で疲弊した各国への復興金融という役割を担うことになった。

IMF協定第四条第一項は、加盟国の通貨の平価を「金または一九四四年七月一日現在の量目および純分を有する合衆国ドル」により表示すると規定し、同第二項は「金の買入れに際しての条件」、また第四項は「金の売買と平価維持義務の結び付き」を明記しているが、いずれもドルの金梵換義移には言及していない。当初からドルと金の交換比率(ドルの金で表した価値)は規定されていなかったが、世界の金準備の大半を保有していたアメリカは、何の制限もなく国外の中央銀行・為替管理機関等に対してドルと金の梵換に応じており、ドルは唯一の金梵換為替として準備通貨の地位が与えられることになった。このブレトン・ウッズ体制は、1971年8月15日のニクソン・ショックまで26年間にわたって機能し、1オンス=35ドルの法定平価が維持され続けた。

 

アメリカでは、東西冷戦に加えベトナム戦争による軍事支出増大による財政赤字増大と国際収支赤字拡大によって金が流出を続け、1971年の金準備は9070トンと1952年の2万663トンの半分以下にまで減少し、「金ドル為替本位制」に対する「信認」が失墜していた。アメリカ国内において、ドルの金準備率は低下し続け、結果として慢性的インフレが生じた。西ドイツ、フランス、イタリア、スイスなどでは、金本位制に立脚する貨幣アドバイザー(Jacques Rueff等)に従い、ドル準備を金に梵換して保有する硬貨政策IIard Money Pohcyを採用し、ドルを金に免換し、金準備を増大させていった。また、欧州諸国の金融機関は、「ドル準備を積み上げて行くリスク」を認識し、ドルを保有し続けて固定レートが切り下げられた際に被る損失発生リスクを移転できるようにするため、余剰のドルを、海外との貿易決済・信用取引に使用するようになり、1960年代半ば、ユーロ・ドルEurodonars市場が成立した(1968年の残高は800億ドル)。これは、ブレトン・ウッズ体制の内部崩壊を象徴する動きであった。

 

1968年になると、民間でもドルを保有するリスクを感じ始め、金に梵換しようとする動きが加速し、金の自由取引において「1オンス=35ドル」の平価を維持することが困難となっていた。アメリカは、二元的金市場two・tier gold marketによって凌ごうとし、将来の世界準備銀行によって発行される新しい世界紙幣として役立つという大儀名分で、金とのリンクを完全に排除した特別引出権Special Drawing Right:SDRsの発行を計画し、これによってアメリカが金準備に縛られずに自由に通貨を発行できる体制をめざそうとしたが、西欧諸国の反対によって普及しなかった。

1971年8月15日、ニクソン大統領は、進行するインフレーションを阻止するために、(1)価格・賃金の凍結、(2)ドルと金との梵換停止、を宣言した。ヨーロッパ諸国の中央銀行による大量のドルの金梵換要求に応えられなくなったためである。ここにブレトン・ウッズ体制は終焉し、当初、銀本位貨幣として誕生したアメリカ・ドルは、金との関係を完全に断ち切り、名目通貨となったのである。

 

1971年12月、ニクソン・ショック後の国際通貨体制を議論するために、ワシントンにあるスミソニアン博物館で先進十ヶ国蔵相会議が開かれ、ドルの切り下げと為替変動幅の拡大が取り決められた。金とドルの交換率は、「1オンスニ35ドル」から「1オンス=38ドル」へ7.89%切り下げられ、円は「1ドル=360円」から「1ドル=308円」へ16.88%切り上げられた。為替変動幅は、上下各1%から上下各2.25%へと拡大され、この通貨制度はスミソニアン協定と呼ばれることになった。ドルの平価切り下げ幅は、実勢から見て小さ過ぎ(ドルを過大評価)、ドルと西欧諸国との為替レートもドルを過大評価した平価で固定された。また、金との平価(1オンス=38ドル)は決められたものの、梵換は回復されず、自由市場での金価格は「1オンス=215ドル」に達していた。結果として、アメリカの国際収支の悪化は止まらず、1973年3月には、アメリカは再度平価を「1オンス=42ドル」へ切り下げたが、ドルの実勢レートは下落し続け、アメリカは輸入インフレに見舞われた。一方、アメリカの輸出品と競合する貿易相手国では、競争的平価切下げ・為替管理・通貨ブロックの形成等の動きが見られ、放置すれば1930年代の経済戦争に移行する懸念が広がった。

やがてイギリスなど各国がスミソニアン体制を放棄し、主要先進国は変動相場制に移行することになった。1976年1月、IMF暫定委員会で、変動相場制の正式承認を含むIMF協定の第二次改正が決定され、「金」は正式に「廃貨」となった。これは、地球上の全ての「貨幣」が、全く実態の裏づけを持たない表徴=「信用貨幣」になったのである。

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