日本における近代貨幣 (1872年~終戦)

経済

日本における近代紙幣は、1872年に発行された政府紙幣「明治通宝」に始まる。同じ1872年、「国立銀行条例」を制定し、全国に153行の国立銀行を設立し、一定の発行条件のもと紙幣の発行権を付与し、最初の国立銀行紙幣(印刷はアメリカに依頼)が発行された。この新紙幣制度の確立によって、明治政府は、江戸時代から流通していた藩札を回収し、紙幣制度の統一を果たしたのである。しかし、金不足を背景に、1876年には、「国立銀行条例」を改正して金免換義務を廃止したため、国立銀行の銀行紙幣発行が急増し、インフレを引き起こしてしまった。明治政府は、1879年に金銀複本位制度へ移行するとともに、インフレを収束させるために、日本銀行を唯一の発券銀行とし、政府紙幣や国立銀行紙幣を回収する方針を固め、1882年に「日本銀行条例」、1884年に「免換銀行券条例」など関係法を制定した。そして、この法制に基づき、1886年に、銀克換紙幣が発行されたのである。

 

1897年、日本は、日清戦争での清国からの賠償金を「金本位制」をとるイギリスのポンドで受け取ることとし、清国から受取ったポンドを金準備として金本位制を復活させた。「金本位制」へ復帰する際の平価は、旧平価1円=1.5g=1ドルから1円=0.75g=0.5ドルへと半分に切り下げた。これは、「銀」価格の下落によって、金銀比価が「1:16」から「1:32」になっていたことに対応している。その結果、僅かに流通していた旧金貨は、額面の倍、1円は2円で通用することになった。

この時定められた本位金貨は戦後も廃止されず、1988年(昭和63年)4月1日に通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律が施行されるまで名目上は現行通貨であった。

 

金本位制を採用しても、日本は産業振興のために恒常的に貿易収支は赤字で、金の流出は続くことになった。更に、日露戦争の戦費調達のため多額の借金を抱え込み、更に賠償金が取れなかったことから、利払いも苦しい状態となり、対外収支は悪化の一途を辿った。

1914年(大正3年)、第1次世界大戦が始まると、日本に好景気がもたらされた。イギリスなどアジア諸国への輸出市場におけるライバルがいなくなり、好況に沸くアメリカからの物資も途絶え、日本の輸出は好調に増加し、貿易収支は黒字に転換し、国内では造船業や繊維業など多数の成金が生まれた。

1917年、第一次世界大戦による各国の金本位制停止を受け、日本も金輸出を禁止し、兌換も停止した。

第一次世界大戦終了後、日本経済は、また慢性的な貿易赤字体質に戻ってしまい、金準備は激減し始めた。更に、関東大震災(1923年/大正12年)、昭和大恐慌(1927年/昭和2年)が発生し、第一次大戦後に欧米諸国が金本位制へ復帰する動きに追随することができなかった。

1930年、こうした悪影響が一段落したのを見計らい、日本も金本位制に復帰した。このとき、実勢の為替レートは、1米ドル=3円程度にまで円安になっていたにもかかわらず、国内のインフレ抑制と国際的地位向上という面子から、旧平価1米ドル=2円=金1.5gで復帰した。

結果、1929年のニューヨーク株価暴落と深刻化する世界大恐慌の影響を増幅する形で受けることになった。1931年、欧米諸国の景気低迷で輸出は激減して貿易赤字が拡大し、金が大量に流出し、日本はデフレ不況に陥ってしまった。

1931年12月、金輸出・金兌換を再び禁止し、日本の金本位制は崩壊し、その後は管理通貨制度に移行した。

1931年9月18日、満州事変が起こり、1937年7月7日から日中戦争が始まり、更に戦局を拡大する形で、1941年12月8日に太平洋戦争に突入する。この十五年戦争において、財政が逼迫する中、管理通貨制の下で軍需物資を調達するために紙幣を発行し続け、日本は恒常的インフレーションに陥ってゆく。

 

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