土倉

経済

12世紀以降、年貢収取実務に携わることを通じて財貨を蓄え、それをもとに高利貸を行う者が現われ、やがて専門の高利貸業者として「借上」と呼ばれるようになった。承久の乱後、彼らは主家の下での経験を生かし、新たに遠隔地の所領を大量に獲得した地頭御家人などの下で年貢収取の実務にあたるようになる。

さらに13世紀末期以降、彼らは一円領化された荘園を預かり、その経営と収納を請け負う代官請負業者としての側面をあわせ持つに至る。こうして彼らの業務が「借上」という言葉の枠に収まらなくなった段階で、この時代の有徳人の代表として、富裕の象徴たる「土倉」の呼称が付与されたのである。

土倉とは、高利貸、代官請負、さらには必要な技術さえあれば酒の醸造など、大きな資本を必要とする分野で積極的な活動を展開する事業家であった。土倉は、一円領化が進んだ「成熟」期の荘園制を文字通り支える存在となり、14世紀末期から15世紀初期にかけて最盛期を迎えた。

それとともに、新規参入を試みる者も現われてくる。高利貸的禅僧や俗人の新興土倉はその代表であり、彼らに資金を供給した禅宗寺院の祠堂銭金融も急速に成長していく。また、日銭屋という、高利・小口の貸付を業務の中心とする業者も登場している。

 

しかし15世紀中期以降、在地勢力の伸長の前に荘園領主の支配力が弱まるとともに、土倉は、重要な収入源である代官請負活動の場を少しずつ奪われ、その在所数を減少させ、個々の在所の規模も縮小していく。彼らはもはや、富裕の象徴「土倉」の名で呼ばれるには相応しからぬ存在となりつつあった。

ただその一方で、高利貸活動を取り巻く環境は次第に好転し、16世紀には債権の回収も明らかに安定に向っている。土倉が、金融業専門の「質屋」に落ち着く準備は整いつつあったのである。

このように、近世の到来とともに姿を消したのを見ても、土倉は極めて中世的な存在であったと言えよう。例えば商業への関与も、座から本所への課役納入の請負など、荘園制的な商業支配の一角を担う形にほぼ限られており、隔地間取引などに自ら本格的に関わることは少なかった。

土倉の立場では、中世の商業が安定的に大きな利益を期待できない分野であったこと、そして当時の日本の商品経済の規模がまだ小さかったことがうかがえる。中世末から近世初頭にかけて、国内外の遠隔地商業の分野に積極的に進出することで豪商へと成長した者が輩出したのと対比すれば、この間の発展段階の差は明白である。

 

政治・社会や経済の荘園制的枠組みの崩壊が顕著になり、これに比列して土倉がその数を減少させていった15世紀中期頃から、商品経済は日本経済全体の中に占める位置を急速に上昇させていったのであろう。

15世紀末期以降、日本独自の銭貨を大量に鋳造して流通に乗せ、新たなる貨幣体系を模索する動きが本格化するが、これもそうした経済体系の変動と密接に関連する事象であるに違いない。

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