明治以降の日本の近代化と国際条件②

日本

1905年にセオドア=ローズヴェルト大統領の調停で日露戦争を終わらせ、さらに同年、桂=タフト協定を締結し、「日本の韓国領有」と「アメリカのフィリピン領有」をそれぞれ権益と認めたので、日米関係は良好であった。

 

日本が南満州鉄道敷設権を獲得すると、アメリカの鉄道王と言われたハリマンは共同計画を持ちかけ、桂・ハリマン協定が締結されたが、小村寿太郎外相の強硬な反対でその協定は取り消された。アメリカは門戸開放を主張して満州方面への進出を強めたので、日本はロシアと結んで日露協約を成立させた。

 

これによって日露の満州分割がなされることを警戒したアメリカは強く反発し、おりからカリフォルニアで強まっていた日本人移民排斥運動と結びついて反日感情が強まった。

1908年、駐米公使高平小五郎と国務大臣ルートとの間の高平・ルート協定で日本は太平洋地域の現状維持・中国での門戸開放、機会均等を認め鎮静化を図った。同協定では、満州に関してはアメリカは日本の特殊権益を暗黙の了解を与えたと捉えられたが、その後も1909年の満鉄中立化計画など利害の対立が続いた。

1910年に第2次日露協約を更新。秘密協定で相互の勢力圏における特殊権益の確保のために両国が協調することを定めた。

この背景にはその前年、アメリカの国務長官ノックスが満州鉄道中立化計画を打ち出し、米・日・英・仏・独・露・清の7ヵ国による満鉄経営の提案したことに対し、日露両国が満州での権益を脅かされると反発したことであった。なおアメリカの満鉄中立化提案は日露の他、英仏も反対したため実現しなかった。

1912年に第3次日露協約更新。日本の勢力範囲を満州から広げ、モンゴルと中国西部に及ぼし、内モンゴルは権益を東西に分割した。その背景には1911年のアメリカなどの4国借款団が幣制改革、産業開発のために清朝に対して借款を申し入れたことにある。

アメリカの狙いは借款を通して満州に浸透しようとするものであったので、日露両国が提携して阻止しようとしたものである。それに対する反対運動から辛亥革命にまで突きすすみ清朝が倒れたことに対応したものであった。

1916年、第一次世界大戦中に第4次日露協約を更新。それまで相互に承認した中国での権益を守るため、相互に軍事援助を行うという秘密相互援助条約とした。軍事同盟にまで深化したのでこの段階で日露同盟と言う場合もある。

しかし、翌1917年、ロシア革命が勃発し、十月革命で権力をにぎったレーニンが平和についての布告で秘密条約を暴露、旧ロシア帝国の締結した条約を廃棄したので消滅した。日露戦争後に、日本とロシアが何事もなかったように手を結んだことは忘れられがちであるが、この戦争が帝国主義国の冷酷な計算の上でなされた戦争であったことを示しているのであり、考えておく必要がある。

ロシアとの間で満州分割を行った日本は、ロシア革命で帝政ロシアが崩壊したことを、その満州支配を排除し、あわよくばシベリアまで支配権を拡大できると考えて実行したのが、1918年のシベリア出兵であった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました