分一徳政禁制

政治

徳政令を出せば、土倉役・酒屋役(税収)が減ってしまう。そこで、室町幕府は「分一徳政令」を考え出した。借金の10分の1の「分一銭」を借り手が払えば徳政令を出し、貸し手が払えば徳政令を出さず、貸し手の権利を認めるというもの(分一徳政禁制)であった。

室町幕府は徳政令を出しても出さなくても、「分一銭」さえ入ってくれば、かまわなかったのだ。室町時代には「分一徳政令」または「分一徳政禁制」が10回以上も出されている。

 

戦国大名も家臣に個別に徳政を与え、戦乱や自然災害、代替りを契機に領国民を対象とする徳政令を発布した。後北条氏の永禄三年徳政令は「撫民」を基調とする後北条「国家」の支配原則のあらわれと評価され、百姓身分と再生産活動の保障を求める中世民衆の徳政一揆の要求と相通じるものでもあった。

中世社会の終焉とともに徳政令も消滅するが、領主の役割として「撫民」の実現を求める民衆の要求は、大名の「御蔵」での種貸・夫食貸を通じた「百姓成立」の公的保障として制度的に確立される一方、代替りと戦乱を軸とする戦国期徳政のあり方は「国替」と「弓矢徳政」に象徴される徳政観念として近世社会に継承された。

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