中世の社会の現実は、あいつぐ戦争の時代でしたし、さらに間氷期で地球が冷え込み、西欧でもアジアでも、したがって日本でも、程度の差はあれ、冷害・日照り・長雨のあいつぐ、凶作と飢饉と疫病と戦争の時代でした。
いったん村が戦場になれば、敵軍は村々を制圧したしるしに、村々を焼き払い(放火)、田畠の作物を刈り取り(苅田)、食糧や家財を奪い(狼藉)、人々をみさかいなく捕らえ(濫妨)、奴隷にしたり、釈放と引き換えに身代金を取ったり、また人買に売りとばしたりもしました。
しかし、こういった、苅田、狼藉、濫妨は、単に大名の戦争の中の一戦術ではなかったのです。
長く戦国末の九州や畿内の戦場にいたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは「日本での戦さは、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである」と、戦場の田畠での作荒らしの食うための戦争という本質を、じつに鋭く示唆していました。
藤木久志『戦国の村を行く』
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