松岡洋右

日本

1932年、松岡は、日本代表団の主席全権として、国際連盟総会に出席した。総会で、満州国の存在が否認されると、松岡代表は「日本は、この決議を受け入れることはできない」と演説し、総会会議場から退席した。翌年、日本は、正式に国際連盟を脱退するに至る。

松岡の真意は、「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえて、これをとらず」と本国に打電しているとおり、日本は、国際連盟に残るべきだと考えていた。1933年4月、松岡は、失意の中に帰国した。

しかし、松岡は、そこで、思いもよらぬ光景を目にする。外交交渉に失敗した松岡を待っていたのは、日本国民たちの大歓声であった。

朝日新聞の見出しは「連盟よ、さらば。わが代表、堂々と退場す」と、満州国の承認を否決した国際連盟の会議の席を蹴った松岡洋右を称えた。

新聞は、「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。我が国は始めて、《我は我なり》という独自の外交を打ち立てるに到ったのだ」と報じた。松岡は、一躍、国民的英雄となっていた。その後、松岡は、政友会を離党し、議員を辞職している。

世論を誘導しようとするマスコミが、勇ましい美辞麗句を書き立てて、エモーショナルな部分に訴えかけるときには、ゆめゆめ注意せねばならない。主権者たる国民は、より正確であろうと思われる事実関係を把握するために、内外の様々な人々の声に、広く耳を傾け、《輿論》を形成しなければならない。

「日独伊三国軍事同盟は、僕の一生の不覚だった。三国同盟は、アメリカ合衆国の参戦防止によって、世界大戦の再来を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の安きに置くことを目的としたのだが、事ことごとく、志と違い、今度のような不祥事件(日米開戦)の遠因と考えられるに至った」

「これを思うと、死んでも、死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」(松岡洋右)

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