エチオピア

軍事

初代テオドーレ皇帝から続くエチオピアの支配者たちは、きわめて精力的で、野心家であり、また冷酷な男たちであった。彼らは一方では力に訴え、他方ではアビシニア・キリスト教会を中心とする古くからの文化的伝統に訴えることによって、アビシニアの高地に住む御しにくい諸部族を統合した。

1896年にエチオピアのメネリク2世はイタリアに勝利したが、1938年、イタリアは再び攻撃を加えてきた。航空機と毒ガスのおかげでイタリア軍が勝利をおさめ、ハイレ・セラシエを帝位から退けて、エチオピアを北東アフリカにおける短命のイタリア植民帝国の中心とした。

エチオピアのメネリク2世は近代化政策をすすめ、イタリアとのウッチャリ条約(1889年)で武器供与をうけることとしたが、その代償として保護権を認めた。次いでフランスが接近し、1893年イタリアとの条約を廃棄した。

 

メネリク2世の違約に報復し、一挙にエチオピア制圧を狙ったイタリアは1896年3月、大軍を以てエリトリアから侵入したが、北エチオピアのアドワで、メネリクのエチオピア軍に敗れ、6000名以上の死傷者を出した(第1次イタリア=エチオピア戦争)。エチオピア軍は大量のフランス軍からの武器の支援を受けていた。

アフリカ大陸の北東部のナイル川上流地帯に広がる広大なエチオピア高原(アビシニアともいう)は、紀元前後のアクスム王国以来、独自の文化を継承し、独立を維持(もちろん紆余曲折はあるが)し、現代まで続いている。伝説では「シバの女王の国」といわれ、アラビア半島との関係が強い。

 

エチオピアは『シバの女王の国』と呼ばれてきた。伝説によると、紀元前10世紀、英明で名高いエルサレムのソロモン王のもとを訪れた南アラビアのシバ王国の美しい女王とのあいだにできた男子メネリクが、後にエチオピア王国を開いたとされる。

エチオピア人は首都アジスアベバが占領されて、イタリアが併合を宣言した後も抵抗を続け、独立を回復しようとした。それは1940年のイギリスがエチオピアを再占領するまで続いた。この1935年10月~40年までの5年間をエチオピア戦争という。

 

イタリアは戦争中も占領中も、エチオピア各地で航空機による無差別爆撃と毒ガス攻撃を行い、容赦なく住民を殺した。1936年1月、エチオピア皇帝ハイレ=セラシエはみずから国際連盟でイタリア軍の毒ガス攻撃の残虐さを告発している。

ムッソリーニは「エチオピアの命運は尽き、ついにイタリアは、帝国を獲得した。それは文明の帝国であり、エチオピアの全人民に対して人道的な帝国である」と演説して併合を誇示した。無差別爆撃と毒ガス使用を、文明と人道の名によって正当化した。

国際連盟理事会がイタリア軍を非難したのは、エチオピア人に対する無差別爆撃と毒ガス使用ではなく、赤十字救援隊が爆撃されたことに対するものであった。この間、エチオピア側の死者73万人(40万人説もある)、そのうち30万が餓死者、3万5千人が強制収容所で死んだ。

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