第四艦隊事件

軍事

1935年(昭和10年)9月26日、日本海軍の第四艦隊は大演習の最中に、三陸東方約250マイルの太平洋において異常な台風に遭遇し、艦船に多大な損傷を受け、多数の犠牲者を出した。損傷艦のうち、その程度が大で、かつ最も問題視すべきは、特型駆逐艦初雪と夕霧の艦首切断であった。

第四艦隊事件は、かつて予測もしなかった大波浪に直面して生じた。

 

第四艦隊事件は前例なき重大事件で、あまりの重大性(軍縮条約廃棄のいわゆる1936年の危機の前年)に鑑みて、その真相は厳重に秘匿されたのである。船体の切断というようなことは1899年、英国駆逐艦コブラ(370トン)が完成直後の航海で船体が両断して沈没して以来始めてである。先に水雷艇友鶴の転覆があり、今またここに最も有力なる駆逐艦の船体切断事件を生じ、日本海軍の造船技術に対し根本的な疑念が生ずるに至った。

 

原因調査の結果、特型駆逐艦の船体強度不十分が最大の原因であることが明瞭になったが、すでに就役後7年間、ほとんど故障なく使用されていた艦が突然強度不十分と立証されるにおよび、その後計画建造された巡洋艦と駆逐艦も、さらに航空母艦すらも強度に欠陥があって補強を要することとなった。なお、特型駆逐艦についてはこの事件後に、就役以来の状況を詳細に調査した結果、就役後2、3年経ってから強度上の欠陥に基づく損傷が次々と発生していたことが判明した。

 

しかるに、いずれも深く留意されずに、政治的に片付けられ、技術的調査を行うことなくついに第四艦隊事件を引き起こすに至ったのであった。

当時の新造艦は溶接を広く使用しており、今回の事件が直接に溶接に起因するものではないが、船体強度に関し、徹底的に調査を進めて行くうちに、溶接を主要構造物に広く使用した艦は強度上の不備があることが明らかとなった。

 

第四艦隊事件は、かつて予測もしなかった大波浪に直面して生じた。その原因調査によって新しい事実が究明され、かくして補強された各艦艇は以後、何等の懸念なくその任務を果たし得たのである。事件の責任はもとより造船技術者にある。友鶴事件とともに日本海軍80年史を通じて、特筆すべき大不祥事件であったと思われる。1936年の危機を直前にし、一時期、日本海軍全艦艇の戦闘力の根本に疑念を持たれるまでの2つの事件は、幸いに当事者の異常な努力と適当な処置により対処が採られた。

 

この2つの事件の技術的解決に当たったのは基本計画主任の福田啓二造船少将(後、技術中将)であり、東京大学工学部長平賀 譲氏もまた前後を通じて指導された。多数の技術者は各工廠より艦政本部に応援出張し、そして夜に日を継いで調査と計算が行われた。対策の実施に当たっては各工廠及び主要民間造船所はその全力をつくしてよく短期間内にほとんど全艦艇の性能改善工事を施行し得たのである。

ワシントン条約以来、個艦威力の増大を極力図った日本海軍の造艦計画は、止むを得ざる事情とはいえ、正に極端な用兵上の要求を受け、過大性能を織込んだ結果、各型艦艇に著しい性能上の欠陥を暴露するに至ったのである。政策と技術との不均衝が何を招くか、無理しなければ用兵上の要求を満足し得ない窮状に置かれた技術者はいかにその所信を表明すべきか、日本海軍の建艦史に特筆すべき友鶴事件と第四艦隊事件は、われわれに痛烈な教訓を与えたのである。

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