尾崎行雄

政治

「人生の本舞台は常に将来に在り」(尾崎行雄)

「昨日まで ためせる事も見し事も 明日往く道の しるべなるべし」(尾崎行雄)

 

1931年、カーネギー財団に招かれ米国に滞在している時、満州事変勃発の報を聞いた尾崎行雄は「日本は間違っている」と主張。「国賊・尾崎を殺せ!」という圧力が日に日に強まるも主張を曲げることなく、1937年には、議会で辞世の句を懐に決死の軍部批判を行なう。1942年、翼賛選挙に反対し東条首相に公開質問状を送り、また同年、選挙中の応援演説がもとで不敬罪で起訴され巣鴨拘置所に入れられる(1944年、大審院で無罪判決)。

 

尾崎行雄は、真の民主政治と世界平和の実現にその一生を捧げた政治家である。

若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例により東京退去を命じられ海外(米国・英国)に渡るが、国会開設(1890年)とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年(連続当選25回)、世界議会史上の記録を打ち立てた。

素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力の弾圧にも屈せず、常に民衆の側に立って闘った。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護運動が起こると人は彼を「憲政の神」と呼んだ。

また、軍国主義が一世を支配するに及んでも平和の信念を曲げず、軍縮を説き単身全国遊説を始めるとともに、三たび辞世を懐にして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。

そして晩年は、廃藩置県ならぬ廃国置州という考えに基づく「世界連邦」の建設を提唱。議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた(享年95歳)。

 

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