新幹線の開発 島秀雄

日本

日本の東海道新幹線は、世界の鉄道を斜陽の危機から救い出した。鉄道全盛の時代に代わって、自動車と飛行機の時代が到来すると誰もが信じていたときに、距離数百キロの大都市間を、飛行機のように速く、通勤電車のような過密ダイヤで結ぶ鉄道がありうるということを、事実をもって証明したからである。

第4代国鉄総裁の十河信二が新幹線の最大の功労者であるのは間違いないが、島秀雄の設計ビジョンとリーダーシップがなければ、世界の鉄道は廃れきっていた可能性は高い。

東海道新幹線は、システムとして断然新しかった。

 

車内信号システム、自動列車制御装置(ATC)、踏切のない全線閉鎖軌道などなどが新しく導入されたが、なかでも画期的であったのが、列車の駆動方式である。

これを島秀雄は「ムカデ式」と呼んだ。要するに、小型の動力(M=モーター)をムカデのように各車両の台車に分散させるのである。

これにより、大型の牽引機関車が不要で、車両を軽くできるようになった。したがって軌道、橋梁などの建設費も安くあがり、故障にも強い。モーターに不調が出ても他のモーターで補いあうことができる。加減速性能にもすぐれ、機敏な折り返し運転が可能で、通勤列車並みの稠密ダイヤが組める。効率的な電力回生が可能である。

島秀雄の独創的な発想である。

1969年に日本人として初めてジェームズ・ワット賞を受賞した他、1994年に鉄道関係者として初めて文化勲章を受賞している。

開発に携わった主な車両(蒸気機関車・電車・気動車等)に「C53〜55形」「C11〜12形」「D51形」「C62形」「63系電車」「80系電車」「151系電車」「新幹線0系電車」「キハ41000形」「キハ43000系」などがある。

 

「新幹線は事故を起こしません。そのように作りましたから」(島秀雄)

 

 

実のところ、新幹線は昭和29年(1954年)に完成するはずでした。正確に言えば、昭和15年(1940年)からの15年計画ということです。

この列車は、最高時速200キロ、東京ー大阪を4時間、東京ー下関を9時間という、当時としては驚異的なスピードで運行される超特急で、「弾丸列車」と呼ばれました。

弾丸列車の終着駅は下関ではありません。

計画では、下関から世界最長の「朝鮮海峡海底トンネル」(全長約200キロ)を経て釜山へ。さらに、京城(現ソウル)、奉天(現瀋陽)を通過して、片や満州国の首都・新京(現長春)へ、片や北京へと到達するスーパー国際列車でした。

新京までは35時間40分、北京までは49時間10分の旅です。

従来、特急「富士」を使って下関まで行き、そこから船使用で新京まで行くのに52時間かかったので、まさに「弾丸」の名にふさわしいスピードです。

弾丸列車計画の実現には、立ちはだかる大きな壁や課題がいくつもありました。具体的には狭軌か広軌か、電気機関車か蒸気機関車か、朝鮮海峡をどう輸送するか、などです。日本は明治以来、狭軌を使っていましたが、大陸では国際標準の広軌でした。

また、電車や電気機関車の場合、発電所や架線が爆撃されたらすべてがストップしてしまう可能性があります。その点、蒸気機関車は自律運転だから問題はないという意見も特に軍部から多発しました。

こうした問題の解決に執念を燃やしたのが、鉄道院の島安次郎(島秀雄の父)です。島は、日本国内では実験できない広軌で高速走行試験を繰り返します。

日本が誇る満鉄のパシナ型機関車「あじあ号」を使って、時速150キロ走行に挑戦するのです。しかし、140キロを超えると、激しいねじれ振動が起こりました。これはレールの基盤をしっかりさせることで解決します。

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