1441年に将軍足利義教が播磨国守護赤松満祐により暗殺されたことによる代替わりと政局不安の間隙をぬって、京畿の土民数万が徳政を要求して蜂起した。火付け役は正長の土一揆と同じく近江の一揆であった。ただ正長の土一揆と違うのは、一揆が諸国に広がらず、集中的に京都を攻撃目標にしたことであった。
一揆の大波は8月に京都に押し寄せ、坂本・三井寺・鳥羽・竹田・伏見・嵯峨・加茂・清水と京都周辺の各地に屯した諸方の一揆勢は総勢数万と言い、各数千の群をなして連日のように京都市中に乱入した。まさに京都は一揆勢によって「四角八方ニ」包囲された格好であり、一般市民は糧道を絶たれて飢え苦しみむ有様であった。
この間、土一揆は再三、幕府との交渉を行い、土民だけでなく、公家や武家も含む、一国平均の室町幕府による初の徳政令を獲得した(正長の土一揆では出されなかった)。土一揆はさらに交渉を続け、9月10日には借銭破棄や質物の取り返しだけでなく、永代沽却地を徳政対象とする天下一同の徳政令も獲得した。
しかしこれに対して、山門をはじめとする高利貸し業者の強硬な反対が起き、幕府は修正を迫られ、9月18日、永代沽却地と諸社神物を対象から除外した徳政令を発布した。徳政令を獲得するまでの土一揆の組織性、戦術、交渉における政治判断、要求の具体性などの高さは、徳政一揆の頂点を示している。
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