撰銭令

経済

撰銭令とは、通貨の価値を決めてしまうことである。なぜこのようなことが必要であったのかというと、戦国時代の日本には、中央政府の発行する銭貨はなかったのである。中央政府が統一銭貨を発行するのは、徳川幕府三代将軍家光のときの寛永通宝である。

 

当時流通していた銭貨は、宋銭や明銭、その輸入銭をまねた私鋳銭である。この輸入銭と私鋳銭がまざって流通していたので銭が一定の価値とならず、善銭と悪銭というものが混在した。善銭とは、銭の価値のまま通用するもので、悪銭は善銭の二分の一の価値でしか通用しない私鋳銭や、すり減ったりした輸入銭のことである。

善銭と悪銭とを一枚ずつ調べていては円滑に取り引きが進まないため、撰銭令が行われたのである。しかし、撰銭令を行ったのは信長が最初なのではなく、幕府も試みていたのである。

 

幕府の撰銭令は、善銭とともに特定の悪銭は一文として流通させ、他の悪銭についても比率を決めて通用させるというように、多くの種の銭を整理し、いくつかの等級に分けて流通させるというものであった。しかし、流通における実勢にそぐわず成功しなかった。

 

信長の撰銭令は、1569年に通貨政策として定めている。天王寺に出された「定精選条々」によると、善銭の2分の1にあたるものが「ころ・せんとく・やけ銭・下々の古銭」、5分の1を「えみやう・おおかけ・われ・すり」、10分の1を「うちひらめ・なんきん」とし、交換比率を決め、これ以外のものを禁止した。

その半月後には「追加条々」が出され、その第1条には「八木をもって売買停止のこと」とある。八木とは米のことで、米を銭貨のかわりに支払うことを禁止したのである。これは幕府にはなかったことで、信長が改善されない貨幣流通に業を煮やして行ったのであろう。

撰銭令による貨幣流通の整備は、それ自体が複雑で多様な銭貨の形態をそのままにして手直しをするものであり、根本的な解決方法とはならなかった。それゆえに信長をもってしても成果をあげることができなかったのである。

 

徳政令はデフレ下において債務者を一時的に救ったかのように見られるが、むしろデフレ経済を加速させ、金融市場や社会を混乱に陥れるだけであった。デフレから脱却する経済政策の立案は決して容易でなく、その代替措置として場当たり的に借金棒引き策が導入されてきた歴史のパターンを読み取ることができる。

デフレ経済から決別する方策として、織田信長の近江安土楽市令は示唆に富む。貨幣不足によるデフレ経済は室町時代にも続き、幕府の衰えとともにモラルハザードが一気に噴出する。徳政を求めた土一揆である。正長の徳政一揆が口火となり、毎年のように徳政一揆が繰り返され、幕府も徳政令を濫発するようになった。

その結果、金融市場は一段と機能不全に陥り、契約行為の維持も困難な社会となっていった。こうした時代背景で信長は楽市・楽座政策の一環として「徳政の不安除去」を宣言した。信長が強力な武力を保有できた背景には経済力があったと言われる。その経済力を確立できた基盤には信用が担保された金融市場の存在があった。

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