近代化と自立を両立させ、福祉価値と名誉価値を同時に満足させることは、国際条件に恵まれぬかぎり困難であった。
その条件の第一は、日本をとりまく欧米勢力が相互に対立しているときであり、第二は大陸の勢力が分裂しているときであった。
欧米が対立しているとき、日本はその一方と協調して近代化をすすめ、同時に他方に抵抗して国民的自尊心を満足させることができた。
日英同盟による日露戦争の遂行、日露協商によるアメリカの牽制、日米共同のシベリア出兵、日米安保体制による対ソ強硬論はその例である。
欧米勢力が相互に協調・連合しているときは日本外交の選択肢は乏しく、政府は国際協調政策を採用せざるをえなかったが、反政府派は、それを欧米追随の軟弱外交と批判し、国民の民族的不満を結集した。
その例としては、明治初期の鹿鳴館外交に対する国権論、ワシントン体制期の幣原外交とそれに対する強硬外交論、占領期の対米協調路線と全面講和論などがある。
日露戦争はポーツマス条約で講和となり、ロシアは満州北部は確保したものの、大方針であった満州南部から朝鮮半島方面への進出の道は閉ざされた。アジア方面での南下をあきらめたロシアは、その目標をバルカン方面に集中する。
そのため、中国での権益を維持しつつ、日本との衝突をさけることを得策と考え、フランスの斡旋を得て1907年日露協約(第1次)を締結した。一方、日本は日露戦争後に批判を強めるアメリカに対抗する必要上、ロシアと結ぶことを良しとして協商関係が成立した。
したがって、この日露協約の基本的な性格は、満州・朝鮮・モンゴル方面における日本とロシアの基本権益をアメリカ(及びイギリス)から守るための帝国主義的勢力圏分割協定と言うことができ、その内容は秘密協定とされた。
その後、辛亥革命の勃発、第一次世界大戦という情勢に応じて4次にわたって改定され、最終的には1916年の第4次においては日露同盟とも言われる軍事同盟にまで深化したが、1917年のロシア革命の勃発によって消滅した。
反露感情の残る日本には日露協約(日露協商とも言う)締結には消極的であったが、それを背後から推したのがフランスだった。フランスは当時ドイツとの対立が深刻になっていたので、英仏協商に続いて英露協商が成立することを強く望んでいた。
日英同盟を結んでいる日本がロシアと協調しなければイギリスは動けない。そこでフランスは盛んに日本にロシアとの協約締結を勧めた。その時切り札になったのは、日露戦争後で財政が厳しい日本に対し、フランスとイギリスがその国債を引き受けるという条件であった。
フランスは半ば脅迫的に財政支援を餌に日本にロシアとの提携を迫り、日本も実利を取って日露協約に踏み切り、英露協商と共に1907年に成立した。このように世界情勢が日本外交にも密接に結びついていた。
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