明治政府②

日本

1902年に第1次日英同盟が締結された。内容は、イギリスの清国における特殊権益と、日本の清国・朝鮮における特殊権益を相互に承認し、第三国と戦争となった場合、他の一方は中立を守ることを約した防御同盟であった。

日本はイギリスとの同盟を背景に、日露戦争を戦い、イギリスは規定どおり厳正中立を守った。日露戦争の終わる直前の1905年に改定された第2次日英同盟は、同盟の適用地域が東アジアおよびインドと拡大されてインドにおけるイギリスの優越権を、朝鮮における日本の優越権をそれぞれ認め、また同盟義務も第三国から攻撃された場合は相互に軍事的援助の義務を負うという本格的な軍事同盟に深化した。

さらに1911年の第3次日英同盟ではドイツの脅威を対象に加えることとなった。一方で、日露戦争後に悪化した日米関係を懸念したイギリスは、日英同盟の対象国からアメリカを除くことを望み、その趣旨を盛り込んだ。

1914年、第1次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟の規定に従い、イギリスに対する軍事支援の名目で参戦を申し出て、中国大陸と太平洋地域のドイツ軍事基地を攻撃。当初イギリスは日本の参戦を要請したが、日本が1915年、21カ条の要求を出すなど、中国での権益拡張をあからさまにすると、次第に警戒された。第1次世界大戦後は、日本の中国大陸への侵出を警戒したアメリカがイギリスに対して日英同盟の破棄を要求するようになり、イギリスも日本の中国進出を危惧し、日米対立に巻き込まれることをさけるために日英同盟の破棄を決意した。1921~1922年のワシントン軍縮会議の協議を経て、太平洋に関する4カ国条約の中で日英同盟の破棄を盛り込んで、日本とイギリスの同盟関係は約20年で解消された。不平等条約改正は列国の反対と反政府派の抵抗で難航したが、この状況をロシアのシベリア鉄道着工が転換した。シベリア鉄道の完成は、イギリス艦隊の影響力の及ばぬアジア大陸の内陸部からヨーロッパ最大の陸軍をアジア各地に展開しうるようにしたから、イギリスは近代陸軍を擁するアジアの諸国と協力する必要が生じた。

イギリスは日本に接近し、朝鮮が英露対立の焦点にせりあがってきた。

山県有朋は議会における最初の施政方針演説で主権線の外側に朝鮮を意味する利益線を引き、その防衛を死活的国益と指定した。日本はロシアと対抗することを理由にイギリスの後援のもと朝鮮で清国と対決することを明確にしたのである。明治27年、イギリスが日英通商航海条約に調印して、不平等条約改正を承認したとき、日本軍は朝鮮王宮を占拠、親日傀儡政権を樹立して、日清戦争を開始し、朝鮮と台湾を支配下におさめ、さらに中国から遼東半島を割譲させた。日本が中国の周縁地域のみでなく、心臓部に分割の刃をあてたとき、列強はまだ清国を解体する準備がなかったから、日本の暴走を抑えて中国分割を未来に延期しようとし、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉が発生した。

日本が屈服し遼東半島を返還すると朝鮮には清国に代わってロシアが進出してきた。世界的規模の英露対立のなかで朝鮮を舞台とする日露抗争が激化した。

 

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