日本はイギリスの援助のもとで臥薪嘗胆の旗印をかかげ対露軍備を拡張した。
露独仏三国は干渉の代償として中国から旅順・大連・広州湾などを租借した。イギリスは威海衛を租借し、揚子江沿岸はイギリス、黄河流域はドイツ、満州はロシアの勢力圏とすることを承認しあった。
こうして中国分割が本格的に始まると、これに反対する二つの動きが生じた。第一は中国の民族運動であり、扶清滅洋を主張する義和団と滅満興漢を掲げる興中会の活動が活発になった。
第二は米西戦争を契機に真珠湾からマニラに至る太平洋の橋を完成してロシアとイギリスに対抗する第三の大国として東アジアに登場してきたアメリカの中国における通商上の機会均等と門戸開放の要求である。
東アジアには中国の分割をめぐって、(1)アメリカの門戸開放主義、(2)ロシアを中心とすり中国を列強の勢力圏に分割しようとする軍事占領主義、(3)帝国主義の侵略に反対し独立を主張する中国民族主義の3つの原則が登場し、日英独仏はそのいずれかと連携して東アジアのパワーゲームに参加することになった。
1900年(明治33年)義和団の蜂起が始まり、ロシアが満州を占領し、清国皇帝が天皇に親書を発して帝国主義に対する日清共同抵抗を呼びかけたとき、日本の前には3つの道があった。
日本は反帝日清同盟路線を斥け、逆に国際協調路線をとり、出兵して義和団鎮圧の主力となった。福建省を勢力圏におさめようとしたアモイ事件はロシアの満州占領に呼応するものであったが、米英に阻止され勢力圏設定には失敗した。
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