ロシアの農奴解放令

政治

1861年にロシアが農奴制を廃止し、1863年にアメリカ合衆国が奴隷制を廃止した。

だが世界の大部分では、近年の急速な人口増加の結果、どんなに不快な仕事であってもそれをすすんでやるだけの労働力はいくらでも見つけられるようになった。ひしめきあう労働者市場でなんとか生きていかなくてはならない未熟練労働者の苦境は、かつての奴隷たちの境遇にくらべてもさほど変わらなかったかもしれない。

 

19世紀中頃の帝政ロシアでは、人口6000万人、そのうち1200万人が自由民で、その中の約100万が貴族であった。貴族のうち、農奴を所有したロシア人貴族は約9万とされる。かれらは上は1000名以上の、下は100名以下の農奴を所有し、領土を耕作させていた。農奴は2250万を数える。

 

かれら農奴は、土地に縛り付けられ、領主である貴族に、賦役や年貢を負担していた。このようなロシアの農奴制がツァーリズムを支えていたが、19世紀に入りアレクサンドル1世やニコライ1世の時代にはその廃止を求める声も強くなってきたが、実現しないままであった。クリミア戦争に敗れたアレクサンドル2世は、「上からの改革」によるロシア社会の近代化を必要と考え、1861年2月に「農奴解放令」を公布した。

 

<帝政ロシアの農奴解放令>

・農奴は人格的に解放された。

・しかし、農奴が耕作していた土地は、有償で分与される(地代の約16倍で)ことになった。

・分与地を買い取る代金は国が肩代わりし、農民は国に49年年賦で支払うことになっていた。この支払いは解放された農民にとっても重い負担とになった。

・分与地は農民個人に与えられるのではなく、まとめて共同体(ミール)に渡され、そこから農民が支払額に応じて分与地を得ることになっていたが、支払える農民は稀で、ほとんどが共同体の所有となった。

 

このように農奴解放令は、ただちに自作農を創出することにはならず、ロシアの後進性は依然として根強く残存した。アレクサンドル2世の農奴解放は不十分なものであったが、これを機に1860年代以降、ようやくロシアの産業革命が始まることとなる。

 

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