占星術と自然哲学

学問

中世・ルネサンス期のヨーロッパの大学では、「占星術」が自由学芸のなかでも重要な科目であると位置づけられていた。13世紀のパドヴァ大学では、医学教授のピエトロ・ダバーノによって、医学を学ぶ者は占星術を学ぶ必要があると述べている。医学課程においてのみでなく、数学課程ならびに自然哲学課程においてもまた占星術は重要な役割を与えられた。このような傾向はパドヴァ大学に留まらず、ボローニャ大学など他の大学でもみられ、17世紀に入るまで続いていく。

しかし、17世紀に入ると占星術を改革しようという運動が本格化していく。フランシス・ベーコンが『諸学の振興について』(1623年)において、帰納法的方法を占星術に導入することで、その改革を真剣に提案している。ベーコンはまず占星術を、回帰占星術・出生占星術・選択占星術・質問占星術の四つに分類し、回帰占星術以外は根拠がないものとして喝破した。

そしてベーコンは、占星術によって予言が可能であるとは認めつつも、その予言をより良いものとするには、過去の歴史を綿密に調査し、そこから規則を導き出す形で予言すべきだと論じたのであった。

17世紀によって改革が提案された占星術であったが、そういった努力の甲斐なく、18世紀に入ると大学カリキュラム、具体的には数学・自然哲学・医学課程から除外されていくことになる。まず数学分野においては、数学教育を発展させた人物として著名なクラヴィウスによって、数学教育から占星術が除外された。しかし、これが完全に数学と天文学の解離であったかと言われれば必ずしもそうではなく、同時期のイタリアやイングランドの大学では依然として数学課程において天文学が講じられた。天文学の数学課程から除外が明確化したのは18世紀に入ってからである。たとえば、エウスタキオ・マンフレディは『天の動きについての天体位置表』の序論において、そこから占星術的性格を取り除いている。

次に自然哲学について、占星術廃絶論者であったニュートンやデカルトに影響を受けたジャック・ルオーは、『物理学論考』(1671年)において自然哲学から占星術を明確に除外した。その翻訳は世界中へと広がり、1740年代にはハーバード大学、イェール大学、ケンブリッジ大学などでも教科書として採用された。最後に医学においては、他の課程に比べると占星術は生きながらえたといえる。たとえば、ニュートンのかかりつけ医であったリチャード・ミードは『太陽と月の影響について』(1704年)などにおいて、機械論的医学の理論と占星術的性格をもつガレノス医学の実践とを接合してみせている。このような過程を経て、占星術は大学カリキュラムから排除されていくことになるが、その一部は神秘学と結びつき、18世紀になっても民衆文化のうちに生き残ることができたものもあった。

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