文章というものは、時間と空間を超えて他者に情報を伝えることを目的としているため、場所や時代によって変化してはいけないのである。ローマで書いたものはイスパニアでも読めなければならず、アウグウストの時代に書かれたものはハドリアヌスの時代にも読めなければならない。そのため文語は固定されるのである。
一方、口語は常に場所と時代で変化するものであり、元々、ラテン語に文語と口語があったが、口語ラテン語が時代と場所で変化していったのがフランス語、スペイン語などのロマンス諸語なのである。
このため西欧においては、近世までは、その人が何語を使っていても、文章が読めるということは(文語)ラテン語が理解できるという意味なのである。これは一見、不便に思えるが、各時代毎に変化するトスカナ語、カタルーニャ語、オック語、オイル語といった口語の全てを理解するより、はるかに楽なのである。
西欧の知識人はラテン語を学ぶだけで、少なくとも書簡では西欧の全知識人とそしてそれ以外の地域でも西欧に関心があってラテン語を学んだ知識人と意思疎通ができることになる。(漢字圏でも事情は同じで、東アジアの知識人は漢文を使って意思疎通することができた。)
これは共通語(リンガ・フランカ)の概念とも似ているが、リンガ・フランカは口語であり、時代毎に適当なものが使われ変化するため同じとは言えない。
近世、近代においては、ナショナリズムと関連して、各国語で文章が書かれることが多くなり、中産階級の識字率は大いに上ったが、労働者階級においては未だに低かった。
表音文字であるため、アルファベットを覚えて読み上げれば、ある程度は分かるのだが、スペルと音に多少の乖離が生じ始めているのと、文章で使う言葉は通常会話で使う言葉より難しい単語を使うことが多いため、ある程度の教育がないと理解できないことになる。
近代においては、国家における口語の統一(標準語)が行われ、言文一致体が推奨され、義務教育が実施されることにより、識字率は大いに上がり、先進国ではほぼ100%になっている。
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