床屋が外科をやっていたというと、如何に昔は医学が遅れていたかを象徴するものとして嘲笑的に語られることが多い。確かにヨーロッパ中世において医学はギリシャ、ローマ時代と比べて非常に低いレベルに戻ってしまったことは間違いなく、当時のイスラム世界と比べても相当の差があったようである。
しかし、本来、髪を切る人が専門職がいないから人の体をついでに切っていた訳ではない。元々、人の体に刃物を用いる床屋という職業は、簡単な整体術を同時に実施していたのである。ドイツ圏のスパではBaderという浴場付きの整体師がいてスパに療養にやってきた人たちにマッサージ、できもの、腫れ物の除去、浣腸、蛭吸いなどを行っていた。そのような伝統によって、専門の医師のいない中世において医療の一角を占めたと思われる。
中世の医療の中心は修道院であり、修道士たちは薬草を栽培し、現実的な医療を人々に与えてきたが、教会の権力が強くなった中世盛期には聖職者が血に触れることを禁止する動きがでてきた。何度か禁令が出されているのは逆に中々なくならなかったことを意味するが、1215年のラテラン公会議の禁令はかなり影響を与えたと思われる。それ以外の中世の医療従事者は、民間療法者、聖職者が行うお祈り、診断・調合も行う薬草売り、そして抜歯、瀉血、腫れ物の除去、浣腸、蛭吸い、マッサージなどを行う床屋である。当時、肩こりや体の不調は体内の血が澱んで溜まっているためと考えられ、瀉血、蛭吸いが行われた。また体内の不純物が病気につながるとして浣腸が頻繁に行われた。
修道士が外科系の治療を行えなくなったことにより、世俗の外科の職業が生まれ、医療を行う修道士などの指示を受けて外科的な治療を行ったが、やがて独自に従事するようになった。当時の外科の仕事は、事故や戦闘による傷に対して、切断・切除することと止血を行う程度であり、刃物を扱う者として、床屋が外科を行うことも多かった。
床屋も外科も職人であり、当初はギルドも別々だった。しかし床屋がしばしば外科の領域を侵すため、両者は争うことも多かった。そのためイングランドでは16世紀に2つのギルドは合併し床屋外科ギルドとなり、「床屋外科」という言葉が生まれたのである。しかし、全ての床屋が外科をやった訳ではなく、床屋(整体術を行う)、外科、床屋出身の外科(床屋も兼ねる)が存在した。
18世紀頃から学術的研究に基づく科学的医療が外科にも及び、外科は床屋と別れ、学術機関で教育を受けた医学の専門家として内科と並ぶようになる。床屋からは整体術系の施術が徐々に禁止されるようになり、散髪専業となっていった。
床屋のくるくる回る「赤」「青」「白」のサインポールの由来は、中世ヨーロッパまでさかのぼります。
その当時、病気などの患者さんに対し、ポピュラーな治療法のひとつに、「瀉血」がありました。これは「身体の悪い部分には悪い血が集まる」という考えから、その部分の血を抜き取るという治療法でした。
治療に際しては、患部を切開して血を抜き取る際に、患者に棒を握らせ、腕を固定し、そこを伝って受皿に落ちていくようにしていましたが、術後に血のついた棒をそのままにしておくのは衛生上好ましくないとのことから、その棒を赤く塗って使用するようになりました。
その棒は、barber-surgeon’s pole(床屋外科医の棒)と呼ばれ、後にbarber’s poleつまり床屋の棒と呼称されるようになったといわれています。治療が終わった後、洗浄したその赤い棒と傷口に巻いた白い包帯を店の軒先に干していたところ、風に吹かれてその白い包帯が赤い瀉血棒にらせん状に巻き付きました。
そののち、1700年代にフランスや英国で、床屋と外科医が区別された際、床屋は青を、外科医は赤白にと定められたため、床屋の看板は今日の赤・白・青の3色になったといわれています。
その他色々と諸説はありますが、信頼性が高いこの「瀉血」説が有力と言われています。
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