1964年 公民権法

アメリカ合衆国

1863年の奴隷解放宣言、1865年の憲法修正13条によってアメリカ合衆国の奴隷制度は廃止されたが、黒人は経済的な自立が困難であったため貧困が続き、黒人に対する差別はなおも続いた。特に南部諸州では黒人差別が強まり、差別的な立法が相次ぎ、黒人は職業や居住、教育などの自由を奪われ、選挙などの権利を事実上剥奪される状態となった。

第二次世界大戦では黒人も兵士として動員され、戦後は平等な権利を求める声がさらに強まった。そのような中で1950年代に黒人自身の間で強まったのが白人と平等な諸権利を要求する公民権運動であった。1964年に公民権法が成立した。

1950年代からアメリカ南部の黒人の間に自然発生的に人種差別反対の動きが活発になってきた。1953年にはルイジアナ州バトンルージュで、1955年にはアラバマ州モントゴメリーでいずれも黒人のバス・ボイコット運動が起こった。白人専用座席に着席した黒人女性が座席移動を拒否して逮捕されたことから、黒人が抗議のためバス乗車を拒否したものである。モントゴメリーのバスボイコットでは弱冠26歳のマーティン=ルーサー=キング牧師が指導者となり、非暴力抵抗運動を展開した。最高裁は1956年、バスの人種隔離は違憲であるとの判断を示した。1957年にはアーカンソー州リトルロックで黒人生徒の公立高校入学を州知事が拒否して州兵を動員してその登校を阻止するというリトルロック事件が起きた。アイゼンハウアー大統領は連邦軍を動員、連邦軍に守られて黒人生徒が登校するという事態となった。各地で同様な事件が起こり、また白人側のこの運動に対する反発も強まり、リンチ事件が多発した。

1961年大統領となったケネディは黒人に公民権を認め、差別撤廃に乗り出す方針を示した。1963年8月にはキング牧師らが指導し、全国の黒人、差別に反対する白人も含め、20万人がワシントン大行進を敢行し、政府にその政策の即時実施を迫った。ケネディ大統領暗殺後、その政策を継承したジョンソン大統領によって、1964年7月、公民権法が成立し、一定の前進を見た。

コメント

タイトルとURLをコピーしました