時は第二次世界大戦後。後のランボルギーニ創始者で、当時優秀なメカニックであったフェルッチオ・ランボルギーニは、自ら開発したシステムを使って高性能トラクターを作り巨額の財を築きました。そして彼は当時、イタリアで成功者の証とされていたフェラーリオーナーとなったのです。
しかし、当時のフェラーリはクラッチに決定的欠陥を抱えていました。愛車の度重なるクラッチ故障に悩まされたフェルッチオは、修理のためにフェラーリ社に部品を請求します。そこで送られてきたのは何と自社のトラクターで使用しているパーツ!しかも10倍以上の値段が付けられていたのです!!
憤慨したフェルッチオはすぐさま抗議しましたが、相手にされず門前払い。この屈辱から「絶対、自分でフェラーリを超える車を作ってやる!!」と決意したのです。これが、フェルッチオ・ランボルギーニが自動車ビジネスに乗り出したきっかけであると言われています。
フェラーリから多くの開発スタッフ、またマセラティなどからも優秀なエンジニアを引き抜いて1962年にランボルギーニ社を創業。1964年に登場した「350GT」はフェラーリを凌ぐ車として好評を得ました。
その頃、ランボルギーニを全く相手にしていなかったフェラーリも、1966年、名車「ミウラ」の登場でその存在を認めざるを得なくなります。ここから「跳ね馬フェラーリVS暴れ牛ランボルギーニ」の歴史が始まったのです。
現在でも使われているフェラーリの伝説的なシンボルは、英雄的な起源を持ちます。それは当初、第一次世界大戦のイタリア人パイロット、フランチェスコ・バラッカ伯爵のパーソナル・エンブレムとして彼の機体に描かれていました。
戦争終了後、バラッカの両親は、エンツォ・フェラーリに「跳ね馬」のシンボルを使うことを提案しました。エンツォは、故郷モデナに敬意を表して、モデナ・イエローの盾の中にカヴァリーノ・ランパンテ(跳ね馬)を描き、上部にはイタリアン・トリコローレを配し、レーシング・スクーデリアのロゴとして採用しました。
1939年9月6日、エンツォ・フェラーリは、最低でも4年間にわたってフェラーリの名前をレース、およびレーシングカーにおいて使用しないという条件のもと、アルファ・ロメオを去りました。その瞬間から、アルファ・ロメオを自分の車輌で打ち負かすということが彼の情熱となりました。
第二次世界大戦前までのアルファロメオは、レース参戦費用を稼ぐため、自動車を売るようなメーカーであると言われていた。とてつもない資金が必要なため、生産された車たちは高価で、しかもレース参戦で培われた技術をあますことなく注入された、現代におけるフェラーリのようなスーパースポーツカーだったのである。
時は第二次世界大戦後。アルファロメオはこれまでの高品質・超高性能な車を少量生産するメーカーから、量産メーカーへと変わることになる。
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